古代史研究のタブーが解かれた終戦後に出てきた、継体天皇に関する大胆な仮説
新説! 謎の大王「継体天皇」と王位継承の謎 第2回
3度遷都し、即位20年目に大和入りをした謎の大王「継体天皇」。その王位継承のミステリーに迫る連載、第2回。
大戦後に大胆な説が次々に発表…
継体天皇は王族の血を引いていなかった?
第2次大戦後、古代史研究のタブーが解かれ、大胆で自由な説が学界を賑わすようになった。江上波夫氏の騎馬民族征服説もそのひとつだったが、水野祐氏が唱えた三王朝交代説は、継体天皇をそれまでの王統とは血縁のない、新王朝の初代であると考えた。その後、直木孝次郎氏が、継体を「近江か越前の地方豪族」で、「風を望んで北方より立った豪傑の一人」であるとし、「二十年に及ぶ動乱期を統一し、新王朝を創始した英雄」と推定した。
さらに岡田精司氏は「継体天皇は地方豪族出身の簒奪者」だとし、その出身を近江国坂田郡の「息長氏」に当て、日本海から琵琶湖・淀川流域にかけての「水陸の国内商業活動」や「朝鮮貿易」など、「豊かな経済力および交易による広域の地方豪族との連携が、継体の簒奪を可能にした」と述べた。
戦後、継体天皇が本当に王族の血をひくのかどうか、疑問とする見解が主張されたのは、『記・紀』の記す彼の「応神五世孫」という出自記事が不十分なことが根拠としてあった。そこで注目されるのが『釈日本紀』の引用する「上宮記一云」という史料である。これは使用する字や文体などから『記・紀』よりも古い、おそらく推古朝から天武朝ころまでの史料と推定されているが、そこには『記・紀』には記されていない応神天皇から継体に至るまでの5代の系譜がすべて記されている。
この「上宮記一云」によれば、応神―若野毛二俣王―意富富杼王―乎非王―汙斯王―継体、という系譜が出来上がる。ただこれが信用できるかどうか。近年は「上宮記一云」の成立年代をこれまで考えられてきたよりも遅く、『日本書紀』より後に出来たものとする研究者もいる。しかしこうした見解に十分な根拠があるとは認められない。