徳川家康はいかにして100万都市「大江戸」をつくったのか?
発売中!『歴史人』 4月号の特集は、「【古地図】と【現代地図】でたどる江戸の名所100」
■家康の低湿地が広がるだけの武蔵国・江戸への転封がすべての始まり
「北条家の旧領関東、江戸の二百四十万石を褒美として分け与えよう」
天正18年(1590)、小田原城包囲の戦いで北条氏直が降伏したとき、関白・豊臣秀吉は徳川家康にこう告げた。確かに広大な領土の恩賞であるが、それは、低湿地が広がるだけの武蔵国・江戸と、豊饒な当時の所領、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃との交換である。
秀吉からのまるで愚弄するかのような要求に、徳川家臣団は激怒した。しかし、なぜ結果的に家康はその国替え要求を受け入れたのか? そして入府以降、どのようにして江戸を大都市へと発展させたのか?
創刊100号を迎えるという『歴史人』4月号では、歴史学者・安藤優一郎氏が見事にその謎を解説してくれている。
「家康の関東転封については、秀吉の本拠である上方から遠ざける意図があったことは否めないが、石高からみれば倍増であり優遇策と言えなくもない」
さらに、家康入府前の江戸は寂れていたとされてきたが「それは事実ではない。家康の偉大さや、先見の明を強調するため、かつての江戸は寂れていたと説明されてきたからだ」という。
太田道灌により江戸城が築かれたのは長禄元年(1457)のことで、江戸は陸上のみならず、水上交通の結節点でもあり、交通・物流の要所であった。
むしろ太田道灌の「先見の明」をもっと評価すべきだと、安藤氏はいう。さらに「江戸は関東の中央部に位置し、小田原よりも関東支配のためには適していた」。
つまり、家康は秀吉から江戸を押しつけられたわけではなく、交通・物流に加え、戦略的にも江戸という土地に発展のポテンシャルを感じていたことになる。その後、江戸は発展を続け、見事に大都市TOKYOの礎となったわけである。
来年はここで2回目のオリンピック・パラリンピックを迎えるわけだが、訪れる外国人に対しても、江戸〜東京、創成の謎を説明できる大人はカッコいいのではないか?