九度山訪問記③
季節と時節でつづる戦国おりおり第440回
幸村庵を出て東へ坂を少し登ると、道ばたに柵に囲まれた一角があります。
これぞ「真田の抜け穴」。 真田信繁(幸村)が大坂城に入るときにこの穴を通って監視の目をくらましたという伝承が残っています。実は横穴式古墳とか。
『紀伊続風土記』によればこの古墳の穴は江戸時代「真田の穴」と呼ばれ、これとは別に九度山を東西に流れる丹生川の上流側=東部分の岸の崖の岩の間にすき間が開いているのを「真田の抜け穴」と呼んでいたということです。そしてその元祖「抜け穴」から紀ノ川の崖の通称「真田淵」まで地下トンネルが掘られていたとの伝承あり、とのこと。
では、なぜ「穴」が「抜け穴」になり、本来の「抜け穴」が今は語られなくなってしまったのか。それは、次の写真を説明してから考えてみましょう。
この写真は遍照寺さん。 九度山町の中でも東に寄り、下を丹生川が流れる高みにある真言宗のお寺です。実はこの遍照寺さん、真田信繁と深い関係があるのです。先に訪問した真田庵(善名称院)は昌幸の寓居であり、この遍照寺さんの地こそが、息子の信繁の住まいの跡だというのです。境内には信繁が使った井戸があり、崖には石垣跡(個人所有地)が残っているとのことで、もしその伝承が本当であれば、丹生川の崖の「抜け穴」というのがこの信繁屋敷跡に近かったためにその名が付けられたという想像ができます。
※Google Mapより。
それがやがて真田庵だけが残り、父子ともにそこで暮らしたということになって、その近くにある「穴」の方が「真田の抜け穴」にふさわしくなった。そういう流れではないでしょうか。
謎のベールに包まれた真田信繁(幸村)は、この九度山でも私たちに格好の推理ネタを与えてくれるのでした。