【戦国武将と城】敵は信長、光秀が「本能寺」へ出陣した城——丹波亀山城「築城の名手」明智光秀の真実③ |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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【戦国武将と城】敵は信長、光秀が「本能寺」へ出陣した城——丹波亀山城「築城の名手」明智光秀の真実③

謎に包まれた生涯を関わりの城とともにひもとく③丹波亀山城


 大河ドラマ『麒麟が来る』もいよいよ大詰め。
 明智光秀、観ていないから、わからない?
 いえいえ、まだまだ間に合います‼️
 戦国武将とお城の関係、つまり「戦(いくさ)」への準備、守り、攻撃という切り口から、光秀をとらえかえすと、光秀の人生の真実が見えてきます‼️
 明智光秀は、武勲も多く織田家臣団の出世頭。
 領民からも慕われ、築城の名手・・・
その謎に包まれた生涯を関わりの「城」とともにひもとく!


丹波亀山城(たんばかめやまじょう)
光秀の丹波攻略と平定の足がかりとした城

明治維新以降、廃城となり所有者が転々。その後、宗教法人大本の手に渡る。石垣は大本により修復され申し込めば内堀跡や本丸付近の石垣を見学することは可能。

 

■丹波経略の拠点であり、本能寺へ出陣した城

 光秀は天正3(1575)年6月、信長から丹波攻めの総大将を命じられ、11月から本格的な軍事行動をおこしている。はじめのうち、丹波国多紀郡の八上城主波多野秀治(はたのひではる)が味方になってきたので、順調に氷上郡の黒井城に拠る荻野直正(赤井悪右衛門)を攻めはじめた。ところが、翌年正月、波多野秀治が突如、荻野直正側に寝返ったため、光秀軍は敗退している。

 そこで光秀は、近江坂本城から出陣するのではなく、丹波に拠点となる城の必要性を考え、それまで丹波守護代内藤氏が本拠としていた亀山の地に目をつけ、内藤氏を破り、新たな拠点とした。それが亀山城である。ちなみに、内藤氏を破ったあと、光秀は内藤氏の重臣だった並河掃部(なみかわかもん)・四王天但馬守(しおうてんたじまのかみ)を自分の家臣に組み入れている。

丹波国亀山城絵図 正保元年(1644年)に徳川家光の命で作られた正保城絵図。国立公文書館内閣文庫所蔵

 

 ただ、亀山城がいつ築かれたのかについては史料によってちがいがあり、細川氏の記録『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』では天正5(1577)年10月とするが地元に伝わる『亀山城地録』では同7年の築城としており、ちがいがある。

 江戸時代、亀山藩士・矢部朴斎(やべ・ぼくさい)の著わした『桑下漫録(そうかまんろく)』によると、何を根拠にしたかわからないが、縄張を担当したのは光秀の娘婿の明智秀満だとする。また、築城にあたり、近くの寺院や神社の敷石や扉などが築城資材として運びこまれたともいう。

 亀山城はその後、慶長14(1609)年に、幕府による大坂城包囲網の一環として大規模な改修拡張が行われたため、光秀の時代の亀山城の縄張については残念ながらわからない。

 亀山城の周辺地形をみると、旧山陰道が通るあたりに城下町が形成され、保津川沿いの部分が北へ進むにつれて低くなっており、北の突端部が一部高くなっていて、そこに城の主要部分があったと考えられている。なお、光秀時代に、城と町を囲む「惣堀(そうぼり)」があったことも史料から読みとれる。

波多野秀治 波多野秀治が叛旗を翻した「黒井城の戦い」は、光秀にとって数少ない負け戦である。写真/丹波篠山市立歴史美術館蔵


丹波亀山城天守古写真  明治5年に撮影された5重5階の天守。手前には本丸多聞櫓が見受けられる。 美田村顕教撮影/亀岡市文化資料館提供

(一個人2020年4月号から)

 

監修・文 小和田哲男
1944年静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」等にも出演。数々のNHK大河ドラマで時代考証を務め現在放映中の「麒麟がくる」も担当する。

 

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小和田 哲男

おわだ てつお

1944年、静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。『知識ゼロからの真田幸村入門』(幻冬舎)、『The Story of SANADA 真田三代と真田丸のすべて』(小学館)などを監修のほか、著書多数。


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