【戦国武将と城】なぜ光秀は亀山、坂本についで福知山城を築いたのか——「築城の名手」明智光秀の真実④《大河「知っトク!」》
謎に包まれた生涯を関わりの城とともにひもとく④福知山城
大河ドラマ『麒麟が来る』もいよいよ大詰め。
明智光秀、観ていないから、わからない?
いえいえ、まだまだ間に合います‼️
戦国武将とお城の関係、つまり「戦(いくさ)」への準備、守り、攻撃という切り口から、光秀をとらえかえすと、光秀の人生の真実が見えてきます‼️
明智光秀は、武勲も多く織田家臣団の出世頭。
領民からも慕われ、築城の名手・・・
その謎に包まれた生涯を関わりの「城」とともにひもとく!
福知山城(ふくちやまじょう)
丹波平定の後、この城を拠点に中国攻めへ向かう
■京・大坂と山陰を結ぶ交通の要衝に築城
福知山城の場所には横山城という名前の城があり、横山信房が城主だったが、天正7(1579)年8月、そこを光秀の軍勢が攻め落としている。
光秀は横山城があった場所に目をつけ、自分の娘婿明智秀満と重臣の藤木権兵衛に、新たな築城を命じ、城名を福知山城とした。
すでに、亀山城を築き、近江には坂本城もある光秀が、なぜ新たな城の築城に取りかかったかであるが、亀山城は丹波の入り口、口丹波で、丹波の奥の方を支配する拠点がほしかったのと、もう一つ、福知山の地が、京・大坂と山陰を結ぶ交通上の要衝だった点である。しかも、城のすぐ横を流れる由良川は若狭湾に流れこんでいて、日本海側の物資が舟運によって福知山まで運
ばれてくるという利便性もあった。
ところが、その由良川がよく氾濫したのである。そこで光秀は、由良川の流路を変える大土木工事を行い、堤防を築くことからはじめている。それが「蛇ヶ端御藪(じゃがはなおんやぶ)」とよばれているもので、城と城下を洪水被害から守るものとなっている。そのため、現在も、光秀は福知山の町づくりの恩人として御霊(ごりょう)神社に神として祀られているのである。
福知山城で注目されるのは、石垣に転用石が多くみられる点である。宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔の台石が多く積まれている。よく、「石垣の石が不足し、それを補うために寺院から運んできた」と説明されることが多い。それも一つの理由ではあるが、それら転用石がいずれも逆さに積まれていることで、民俗学でいう「穢(けが)れの逆転」の意味もあったといわれている。むしろ、城が盤石になることを願ったという解釈である。
光秀によって築かれた頃の福知山城の縄張や、くわしい築城経過も史料がなくわからない。ただ、城主となったのが明智秀満で、天正9(1581)年4月頃には大方完成していたことは福知山城で接待を受けた茶人の津田宗及(つだそうぎゅう)の『津田宗及茶湯日記』からうかがわれる。
監修・文 小和田哲男
1944年静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」等にも出演。数々のNHK大河ドラマで時代考証を務め現在放映中の「麒麟がくる」も担当する。