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【戦国武将と城】いまも光秀時代の遺構がほぼそのまま残っている「城郭」——周山城《「築城の名手」明智光秀の真実⑤》

謎に包まれた生涯を関わりの城とともにひもとく⑤周山城


 大河ドラマ『麒麟が来る』もいよいよ大詰め。
 明智光秀、観ていないから、わからない?
 いえいえ、まだまだ間に合います‼️
 戦国武将とお城の関係、つまり「戦(いくさ)」への準備、守り、攻撃という切り口から、光秀をとらえかえすと、光秀の人生の真実が見えてきます‼️
 明智光秀は、武勲も多く織田家臣団の出世頭。
 領民からも慕われ、築城の名手・・・
その謎に包まれた生涯を関わりの「城」とともにひもとく!


周山城(しゅうざんじょう)
光秀の晩年に、総石垣で築城された東西約1・3㎞にわたる巨大な山城

雑京都市の北に位置する光秀が最後に築城したであろう周山城は、山頂部の東西にふたつの城郭が造られたという。平成29年(2017年)に「航空レーザー測量」と目視調査でその全体像が改めて確認された。。

■光秀築城時の遺構が残る貴重な織豊系(しょくほうけい)城郭

 周山城は麓からの高さ、すなわち比高が230メートルもある典型的な山城である。しかも、場所は現在の京都市右京区京北周山町で、かなり山の中に位置する。光秀はなぜ、山の中のしかも高い山の上に城を築いたのか。

 山の中ではあるが、実は交通の要衝だった。京と若狭を結ぶ周山街道沿いに位置し、また、城のすぐ下を桂川(大堰〈おおい〉川)が流れ、材木供給の水運のルートともなっていたのである。

現在は破壊され、石垣や土塁などの遺構のみが残る。

 

 ところで、この周山という城名について、江戸時代、江村専斎(えむらせんさい)『老人雑話』には、光秀が、いずれは天下を取りたいと考え、自らを周の武王に見立てて命名したとしているが、周山という地名はそれ以前からあり、全くのこじつけである。

 

城跡からの眺めは丹波の山並みが広がる

 

 築城の年について、丹波の地誌『丹波誌』には天正8(1580)年とするが、何を根拠としたかはわからない。ただ、光秀と親しかった茶人の津田宗及『津田宗及茶湯日記』の中で、同9年8月14日に、周山城で光秀と月見をしたことがみえるので、その頃には完成していたものと思われる。

江村専斎『老人雑話』  医師、儒学者だった専斎の話を友人の伊藤担庵が書き留めた談話集。信憑 性は低いとされる。 写真/国文学研究資料館蔵

 

 光秀が築いた城、坂本城・丹波亀山城・福知山城は、その後、廃城になったり、江戸時代に改変されたりして、光秀時代の縄張を確認することはできない。ところが周山城は、廃城になったあと、ほとんど手が加えられていないため、光秀時代の遺構がほぼそのまま残っているのである。

 何よりも目を引くのは石垣で、それぞれの曲輪の虎口(こぐち)部分の石垣はよく残っており、本丸周辺は総石垣のつくりとなっていて注目される。本丸中央部の通称「天守台」穴蔵式となっていて、付近からは瓦片が出土しているので、坂本城で築かれたという天主が建てられていた可能性はある。

 また、随所に「折れ」を入れ、「横矢掛」など、織豊系城郭の到達した姿をみせている。なお、実際に城を守ったのは光秀の従兄弟にあたる明智光忠だった。

曹洞宗慧日山慈眼寺 周山城ふもとにあり、釈迦堂には黒く塗られた光秀像(P.38)のほか、位牌と小さな祠も祀られる。周山城址の御城印も頒布している。

 

(一個人2020年4月号から)

 

監修・文 小和田哲男
1944年静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」等にも出演。数々のNHK大河ドラマで時代考証を務め現在放映中の「麒麟がくる」も担当する。

 

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小和田 哲男

おわだ てつお

1944年、静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。『知識ゼロからの真田幸村入門』(幻冬舎)、『The Story of SANADA 真田三代と真田丸のすべて』(小学館)などを監修のほか、著書多数。


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