阿武隈河原の惨劇
季節と時節でつづる戦国おりおり第452回
大河ドラマは果たして本能寺の変から明智光秀の最期まできちんと描ききることができるのか、残り回数が少なくなるにつれ心配する声があちこちであがっているようです(笑)。それはさておき、現在までのハイライトはやはり斎藤道三と義龍の父子相克でしょうか。父と息子、愛情とライバル関係。複雑な人間模様と運命が生み出すドラマは鉄板です。
そこで今回は別の父子ドラマを。
今から435年前の天正13年10月8日(現在の暦で1585年11月29日)、伊達政宗の父輝宗が、畠山義継に拉致されて人質とされるが、追討の兵は人質もろとも義継を討ち取る。
陸奥二本松の畠山義継は、出羽米沢の政宗に敵対して会津の蘆名氏に寝返ろうとする大内定綱に同調します。
政宗は輝宗の死の2日前に「大備(大内備前守定綱)ことごとく退治を加え候。したがって二本松への事も、近日手切れに及ぶべく覚悟候」と義継討伐の動きを明確にしました。進退窮まった義継は伊達家に降伏を申し出ます。
この日、輝宗は政宗に降伏した二本松城主の畠山義継の挨拶を受け見送ろうとする時に義継に拉致されました、人質として二本松領に連れ去られようとして阿武隈河畔に至った輝宗たちに、伊達の鉄砲隊が火を噴き、輝宗は義継に刺殺されてしまいます。
伊達家の正史『伊達治家記録』では、義継の出頭が「不図(ふと)」、すなわち急遽のものだったため、政宗はこの時あいにく不在で、輝宗殺害の現場にも居合わせなかったとしていますが、先代の主を家臣の一存で殺害できる筈はありませんから、おそらく政宗が現場に駆けつけて命令を下したのでしょう。
輝宗の葬儀で引導を渡した虎哉和尚は彼を「柔よく剛を制す」と称え、寿徳寺の僧は「春の月、秋の風」と例えました。温和でもの柔らかな人だったのでしょうね。