「死」の考え方に対して、なぜキリスト教と仏教は対極にあるのか?【呉智英×加藤博子】
「死とはいったい何か?」「悔いなく死ぬためには、死をどう考えればよいのか?」——人生100年時代に、死は遠い先のことであり、まるで他人事のように思える。メメント・モリ(自分もいつか死ぬことをわすれるな)。死は誰にでもやってくる。そう考えたとき、死はやはり恐ろしいと思うか、それとも、「死に方」が問題だと考えるか。あの有名な哲学者や思想家、宗教家や文学者は死をどう捉えてきたのだろう? 当代一の知識人・呉智英氏と哲学者・加藤博子氏が、古今東西の名著を紐解き、死を語り尽くした書『死と向き合う言葉――先賢たちの死生観に学ぶ』(KKベストセラーズ)が発売早々、話題となっている。今回、キリスト教と仏教の「死」についての考え方がなぜこれほどまでに対極にあるのかを考える。
■人間の有限性について
呉 キリスト教と仏教は人間の有限性を考える上で、対極にある。キリスト教は、完全なもの、無限なものは存在しているという立場です。それが神ですね。つまり、神は完全であり、無限の存在であるとする。仏教は完全・無限なものはないと考える。端的に言えば、諸行無常が真理であるとする。諸々のものは常ではない。恒常なものは存在しない。つまり、すべては有限なものだということですね。
キリスト教の神、ゴッド、エホバ、ヤーウェは完全・無限なものとしてある。それに対して、ほかの諸々、人間、動物、植物、その他あらゆるものは、神の被造物であるから、不完全なものであるという認識をしている。
ところがそういうキリスト教の教理は、長い時代を経て成立したので、聖書も矛盾だらけです。神は七日間で、この世にある諸々のものを作った、最後に作ったのが人間なんだとする。その人間は、神が自分の似姿(肖像= 肖〈に〉 た像〈すがた〉)として作っているわけです。ということは、逆にいえば、見たところ人間は神に似ているわけだよね。
たとえば、早稲田大学のキャンパスの真ん中に大隈重信(1838~1922/政治家、教育者)の銅像が立っている。銅像を見ると大隈重信を見たことがない人でも、「ああ、こういう人だな」とわかるわけだよね。同じように神がわれわれに似ているということになると、神の身長は全人類の平均の170㎝くらいで、体重は六五㎏くらいになる。でも、170㎝、65㎏というのは、無限ではなくて、有限じゃないか。神は有限の大きさなのか。俺はこの前、前立腺肥大になって、おしっこが出なくなったんだけど、では、チンチンは、神にはあるのか?
神は生殖の必要はないでしょ。そもそも相手もいないし。すべてに満ち足りていれば、水や食い物を摂取する必要もない。だからチンチンなんか必要ないってことになる。神がもし裸だったらね、ものすごく変に見える。さらに考えると、チンチンの上にあるへそも必要ない。お母さんはいないんだもん。目、鼻、口もいらない。無限の能力を持っている以上、においをかぐ必要もないから鼻もない。ものを食べる必要はないから、口もない。だから、神の像というものはものすごく変ですよ。
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