「消滅地名」から見えてくる江戸・東京の意外な歴史
江戸の切絵図に記された「幻の地名」
江戸時代、武家地に「町名」はなく、訪問の際に難儀した。そこで役立ったのが「切絵図」という住宅地図である。江戸の切絵図に記された、現在では消えた「幻の地名」の由来を探る。(47都道府県 地名の謎と歴史)
《神田・日本橋》
大阪へと通ずる東海道の起点・日本橋は江戸開府当時に架橋された。当初は二本の板を渡した程度の簡素な橋で「二本橋」だったともいわれる。さりとて、後年には江戸時代を通じて「日本一の名橋」と謳われ、商業・金融の中心地である周辺一帯の地名としてその名を刻んだ。
[イ]上方地名が町の名に
この地に移った上方出身の商人に因み、「大坂町」「難波町」「堺町」「住吉町」などの町名が付けられた。
[ロ]銀座は日本橋にあった
銀貨を鋳造する銀座は最初、京橋両替町(現在の銀座二丁目)にあったが、後に日本橋蠣殻町に移転。
[ハ]金座跡には日銀が立つ
金貨を鋳造する金座は日本橋本町一丁目にあった。この跡地に明治時代、日本銀行本店が開業した。
[ニ]両替町と駿河町も金融街
金銀の両替が許された町。三井越後屋(後の三越)のある駿河町は富士の眺望で知られた名所でもある。
《八丁堀・銀座》
日本橋・八重洲・八丁堀・銀座・築地・佃の辺りを描いた切絵図。一帯は江戸初期に神田山の土を使って埋め立てられた新開地であり、縦横に細かく水路が走り、物資を運搬する舟が行き交っていた。そのため橋も数多く、数寄屋橋を始め地名として名残を留めるものもある。
[ホ]職業に由来する町名
神田一帯は商人や職人が集住したため、「呉服町」「大工町」「紺屋町」「鍛冶町」などの町名が付いた。
[ヘ]藩名や国名がついた町
銀座の南側はこの土地を埋め立てた藩に由来する「出雲町」「加賀町」「尾張町」などの町名が付けられた。
[ト]別の島だった佃島と石川島
佃煮で知られる漁師町の佃島と近代造船業が発祥した石川島。現在は中央区佃として地続きとなっている。
《新橋・芝》
切絵図の範囲は、現在は東京タワーがそびえる港区東側エリアにあたる。向かって右側、広大な大名屋敷と薄墨で塗られた町人地が南北に続く辺りは現在、第一京浜や首都高速道路、JR山手線(新橋〜浜松町駅)が縦貫。増上寺の寺域は芝公園に、その西側は虎ノ門や六本木のオフィス街となった。
[チ]国道に消えた商店街
芝口橋から金杉橋にかけては「日陰町通り」と呼ばれ、商家が立ち並んでいた。現在は国道15号線が走る。
[リ]駅改札口に名を残す神社
JR新橋駅西口の「烏森口」は、一帯が「枯州(空洲)の森」と呼ばれた昔に創建された烏森神社に因む。
[ヌ]駅名に残る江戸城の濠
溜池山王の駅名が残る溜池は広大なひょうたん池だった。明治期に埋め立てられ、溜池町となるも消滅。
《新宿》
甲州街道と青梅街道の追分にあった内藤新宿に由来する新宿。江戸時代は四谷三丁目から新宿三丁目の辺りが中心街で、新宿駅近辺から西新宿側は「角筈(つのはず)」と呼ばれた田園地帯。左下の田畑と井伊家下屋敷の一帯は現在、神宮の杜である。
[ル]玉川上水の終点「四谷大木戸」
玉川上水の終点、四谷大木戸は四谷三丁目交差点の辺り。南に広がる新宿御苑の大木戸門にその名を留める。
[ヲ]繁華街は御苑寄りだった
江戸四宿の一つ内藤新宿は、高遠藩内藤家の屋敷を起点として、甲州街道沿いに西へと続いていた。
[ワ]十二社(じゅうにそう)は角筈の守り神
十二社熊野神社は新宿三丁目から西新宿にかけての総鎮守。新宿中央公園西側の十二社通りにその名を刻む。
《青山・渋谷》
青山の地名は、上野国の青山郷にルーツを持つ大名に由来する。渋谷の由来は中世初期の豪族の名とも、「塩谷」の転訛ともいわれる。現在は洒落た若者の街として知られる両エリアだが、江戸の昔には中級・下級の武家地と田畑が広がる郊外だった。
[カ]青山屋敷は今は青山霊園に
美濃郡上藩青山家の屋敷があったことが青山の地名の由来。青山大膳亮下屋敷は現在の青山霊園の辺り。
[ヨ]豪農が居た「長者ヶ原」
畑地に記された長者ヶ原には、かつて渋谷長者が住んでいたと伝わる。青山長者丸通りという路地も残る。
[タ]鉄砲隊が集住した百人町
都内では新宿区に残る百人町の地名。現在の青山通り沿いにも百人組(鉄砲隊)の組屋敷が建ち並んでいた。
[レ]坂の名として残る町名
宮益町は渋谷駅東側に伸びる宮益坂の一帯。同地の宮(御嶽神社)のご利益に授かるという縁起のよい町名。
一個人増刊『47都道府県 地名の謎と歴史』より抜粋