信じる者は救われない
季節と時節でつづる戦国おりおり第473回
そしてそして、前田利家逝去の翌日、つまり今から422年前の慶長4年閏3月4日(現在の暦で1599年4月28日)、騒ぎが起こりました。豊臣家奉行衆のひとり・石田三成が大坂の石田屋敷から伏見の屋敷へと逃亡したのです。
加藤清正・福島正則・黒田長政ら「反三成派」の七将が彼を討とうと動いたのがその原因でした。
利家は三成・七将の双方に睨みの効く小うるさい老人で、その重石がはずれた途端に七将が動いたのは、朝鮮侵略後の論功行賞実施を「秀吉の遺命に背く」と拒否する三成を排除して領地を獲得し、戦費の償還や家臣への褒賞に宛てようと目論んだためでしょう。
この騒動に際して、次席大老の毛利輝元は
「この状況は以前から願っていた事なので今はこちらから仕掛けるべき好機だから、三成からは迅速に帰国の上、軍勢を催して尼ヶ崎に布陣してくれと要請された。大谷吉継からは当方が伏見下屋敷に移るのは適当ではないと差し止められた。家康の対抗馬になってくれとまで言われている」
と国元に連絡しています。
三成は、逆に敵対勢力を一掃するための願ってもない機会と言って輝元に出兵を要請し、七将以上に武断的な側面を見せたのです。
その裏には、徳川氏を含む反三成派の排撃成功のあかつきに生じる膨大な空白地を論功行賞に当てようという目論見も隠されていました。
三成は上杉景勝と連携して事態を収拾して欲しいと依頼し、「景勝・我等覚悟次第なにぶんにも相定むべき」(景勝と輝元の裁量次第で、どう処分の結論が出ても構わない)と全権委託を宣言します。
しかし、結局事件は三成ひとりが居城の佐和山に隠退という事になりました。
輝元と景勝をあてにしていた三成は、
「ことのほかおれたる申され事に候。長老の文を見、涙流し候」(殊の外落胆して愚痴を言っている。仲裁に関与した僧の承兌(しょうたい)長老からの書状を読んで涙を流したほどだ)
と、すっかり失望して落ち込みましたが、彼があてにしていた輝元は
「これほどに済み候えば然るべく候」(この程度の処分で済めば良かったのではないか)
と、三代目のボンボンだけあってのんきなものでした。
こういう人物に期待した三成こそ良い面の皮なのですが、それでも三成はその後も毛利家と上杉家をあてにし続けます。
その結果は周知の如し。
関ヶ原の戦いでは両家とも決戦には役に立たず、三成の期待は見事に裏切られる事になるのです。