むかしの日本人はおなかの中の「虫」に悩まされた。
平安時代の日本では、天皇や上流貴族も赤痢に苦しみ…【和食の科学史⑤】
■日本に根づいた茶の文化
この時代に広がったのがお茶を飲む習慣です。お茶は奈良時代にはすでに伝わっていたという説もあるものの、当時は熱さまし、眠気ざましなどを目的に、貴族や僧など限られた人が飲むだけでした。
お茶の普及に大きな力を果たしたのが鎌倉時代初期の禅僧、栄西です。図7をご覧ください。栄西は中国大陸に二度留学し、茶の栽培法、飲み方、効能などに関する知識を深めました。鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、3代将軍源実朝が二日酔いに苦しんでいたところ、栄西の茶で酔いがすっかりおさまったと記載されています。このころのお茶は粒子の粗い抹茶のようなもので、すぐに粒子が茶碗の底に沈んでいたようです。口あたりはよくなさそうですね。
栄西は後鳥羽上皇の命を受けて、茶の効能を『喫茶養生記』にまとめました。ここには茶を飲むべき理由として、こう書かれています。
「健康の基盤は、5つの重要な臓器、すなわち、肝、心、肺、腎、脾がバランスよく働くことである。そのためには、それぞれの臓器に適した味を持つ食べものを適切に摂取することが大切だ」
そのうえで、日本人は苦いものをあまり食べないのが問題だから、苦いお茶を飲むと良い、と説きます。
栄西の思想は、中国大陸で発展した陰陽五行説にもとづくものです。陰陽五行説は、宇宙の発生や自然の循環、人体のしくみなど、あらゆる現象を説明するための理論で、当時は最先端の学問でした。栄西がとなえた、「体のしくみをふまえて食べれば健康になれる」という考えかたは、食を通じた養生、食養生(しょくようじょう)として、のちの時代に大きな影響を与えることになります。
やがて、茶臼を使って茶葉をひくことで、粒子の細かい抹茶を製造できるようになると、室町時代には武家のあいだで「茶の湯」が流行し、やがて武家のたしなみとして定着します。茶葉を煮出した番茶に近いものを庶民が飲むようになるのは江戸時代に入ってから。みずみずしい緑色で、豊かな香りを持つ、現代に通じる煎茶が開発されるのは江戸時代の中ごろ、1738年のことです。
(連載第6回へつづく)