日本人はもともと1日2食。3食の習慣は元禄時代から?
鎌倉時代から室町時代にかけて、日本人の食生活におきた変化【和食の科学史⑥】
■和食の基礎が定まった室町時代
形式にこだわり、豪華ではあっても不健康な食生活を送りがちだった平安貴族と違って、武家社会では、食べたら食べただけエネルギーに変わる健康的な食事が好まれました。しっかり戦うためだけでなく、武士の多くが、戦乱がおさまると武器を農具に持ちかえて耕作にいそしむ農民だったからです。田畑をたがやし、堆肥(たいひ)を運び、重い農具を使いこなすには、力の出るものを食べる必要がありました。
獣肉も食べていましたが、殺生を禁じた仏教の教えに加えて、肉食を心身のけがれとする神道にもとづく考えかたも影響し、農民を含む庶民も肉食は好ましくないと感じ始めていました。あからさまに狩りをすることははばかられたため、健康のために、薬として獣肉を食べるという名目で狩猟を行うようになりました。
獲物は猪、鹿、熊、狸、ウサギ、鳥はヤマドリ、ツグミ、ウズラ、キジなどです。しかし室町時代に入ると、これすら頻繁には実施されなくなったといわれています。
代わって主流になったのが、主食が米で、おかずが野菜と魚という、現代の私たちがイメージする和食です。調理技術の発達により、おなじみの煮物、蒸し物、焼き物、汁物、漬け物が登場しました。
また、室町時代になると米の収穫量が上がり、麦や雑穀で補わなくても米を十分まかなえるようになりました。精米はまだ人が杵でつく方法だったため、白米といっても現在の5分づきくらいだったでしょう。平安時代にはおこわのように蒸していたのを、炊くようになるのもこのころです。
大豆は弥生時代に稲作とともに大陸から伝わりました。日本で栽培が盛んになるのは鎌倉時代以降のことです。表向きとはいえ肉食が禁止されたため、蛋白質を他の食品から摂取する必要がありました。「畑の肉」といわれるとおり、大豆は蛋白質が豊富で、全体の約35パーセントが蛋白質です。大豆を原料とする味噌、醤油、豆腐、納豆、おから、ゆば、あげなどの大豆製品も、室町時代以降、次第に浸透してゆきました。
大陸との貿易が活発になったことで輸入が増えたのが砂糖です。茶の湯の流行とともにさまざまな和菓子が作られました。1467年、銀閣寺建立で知られる8代将軍足利義政の後継をめぐって応仁の乱が起こります。義政は騒動をよそに京都東山に移り住み、水墨画、茶の湯、連歌、能楽、生け花などに明け暮れました。東山文化です。義政は客人があると砂糖羊羹でもてなし、豊かな甘みを楽しんだといわれています。