コロコロ変わる。もう大人の都合で入試制度を変えるのは止めにしないか。
キーワードで振り返る平成30年史 第22回
■ゆとり教育の登場
一方でうまくいっていた日本は何を血迷ったか、当時うまく行っていなかった欧米のそれに倣う。「天才が生まれないのは画一的な教育のせいだ」「暗記一辺倒ではなく応用が効く教育が必要だ」「日本の教育は個性を重視していない、個性を育成する教育を」、こういった様々な声に圧されて、平成元年に学習指導要領が大改訂され、新学力観なる概念が登場する。平成4年にはこの新学力観に沿った形での学校教育が始まり、平成14年には、生きる力、総合的な学力を重視したいわゆるゆとり教育がスタートした。
しかしそもそも生きる力の養成など学校教育に馴染むのだろうか。少なくとも市場原理の外で身分と生活を保証されている(無論だからといって楽ではないのだが)公立学校の教員にその指導を期待するのはそもそも間違っている。彼らに期待するのならば「生きる力」ではなく「(組織の中で)生かされる力、生き延びる力」の養成だっただろう。生きる力などというものを指導できるものがあるとすれば、それはホームレスかフリーランスだったのではなかろうか。少なくともそれは集団教育に馴染むものではなかった。
天才の育成も同じである。そもそも天才とはgifted childのことをいう。文字通り天、すなわち神から才能を賜った幸いな子どものことだ。天才というのは生まれながらにしてそうあるもので、集団教育で育成するものではない。集団教育によって育成できるのは秀才である。天才にとって最良の教育とは、自らの学習速度を阻害することなく自分に最適の指導を与えてくれる環境。嫉妬を気にして「能ある鷹は爪を隠す」などと卑屈に能力を表に出さないでいい環境があれば天才は自然に伸びていくものだ。
総合的な学力についても疑問はある。スポーツに喩えるとわかりやすい。そもそもルールを覚えずしてゲームは成立するのか。キャッチボールも素振りもやっていない者同士が試合をしてまともな試合になるのか。壁打ちもやれない状態でラリーができるのか。答えは明白である。総合的な学習なるものに挑むにはまず最低限の基礎的な共通認識事項をインプットしなければならない。そこを疎かにして研究だの議論だのと決め込んでも、「ごっこ」でしかない。