政長の力の源泉を断つため、若江・誉田を落とす義就
「応仁の乱」京の都を焼き尽くした天下の大乱の11年⑨
■和睦ムードを無視し、義就と政長の延々と続く対立
応仁2年(1468)地方では土一揆や下克上が起こり、大名たちはこれを鎮めるため相次いで帰国して行く。5年後の文明5年(1473)に宗全・勝元の両者が前後して世を去ると講和の機運が盛り上がったが、激しい憎悪を抱いたままの畠山政長・義就のふたりが反対し、実現しなかった。
『応仁記』は山名宗全が70歳、細川勝元が44歳にして、わずかふた月足らずの間に相次いで没したところで「威を以て人に勝たんとすれば、天またその魄(魂)を奪う」と締めて完結する。だが同書が「仏法王法ともに破滅」と嘆いた応仁の乱は、まだ終わりではなかった。乱の主因でもあった、畠山政長と義就の葛藤がまだ続いていたからだ。「東西の和与、大略無為。畠山両所中ばかりなり」(東西の和睦は大体成立した。ただ畠山のふたりの仲だけが決裂したままである)と興福寺の尋尊が観察した通り、ふたりは未だ「威を以て人に勝たん」としていた。 乱の最中はもっぱら義就の奮戦が目に付いていたが、宗全・勝元の死の年の末に義政が将軍職を義尚に譲ると、政長は管領に再任される。しかし彼は7日後に職を辞してしまった。管領の職に忠実であれば、将軍義尚から義就との戦いを止めるよう命じられれば応じなければならない。彼はそれが我慢できなかったものと思われ、管領に返り咲いて義就に対する勝利をアピールすることさえできれば、後は不要だったのだろう。
対する義就も、政長への戦意を燃やし続ける。明くる文明6年(1474)1月、勝元の子・細川政元と宗全の跡を継いだ山名政豊とが講和交渉を開始しても義就はそれに反対を表明した。2月7日に義就の屋敷でその相談をするということになり、彼が酒宴の支度をしていたところ、参会したのは大内政弘ただ一名。その政弘も一献だけ酒盃をやりとりするとそそくさ退散したという(『尋尊大僧正記』)。そして、4月3日に講和が成立しても、義就だけその連絡が回らなかった。東軍でも、政長は臨戦態勢のままである(『東寺執行日記』『大乗院寺社雑事記』)。
その後講和を認めないふたりはそれぞれ京で敵と小戦闘を繰り返していたが、文明9年(1477)9月22日、義就は突然河内へと軍勢を進める。畠山氏の領国である河内・大和の内乱に決着をつけようというのがその目的で、事実若江城ほかを攻め落とし一国を制圧し、続いて大和も義就派が制するところとなった。彼の本心では京において旧西軍方からも孤立してしまった以上、足元の領国を固めて政長の力の源泉を断つに如かずというところである。
特に誉田城攻めでは政長配下の和田某以下30人余りの首を政長に送りつけるという、残酷な所行すら敢えておこなっている。
(次回に続く)