人間の「生き延び生き切る能力」とは一体何なのか?【藤森かよこ】
未来は3パーセントの有能な人間しか生き延びることはできないと恐れる必要はない
AIが人間を凌駕するという仮説がある。ならば、たとえば「人間の生き延びる力」とは一体どんな能力で構成されているのか。それをAIが明らかにしようしているというが、「たぶん、正確な答えをAIは出せない」と語るのは、『馬鹿ブス貧乏な私たちを待つろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください』(KKベストセラーズ)を著した藤森かよこ氏だ。「測定可能な、あるいは言語化、概念化できる能力だけが人間のもつ能力ではない。むしろ、無能さが強みに転じる場合もある」と。だからこそ「自分の無能さに絶望する必要はないのだ」と。人間存在の理不尽さと面白さを考察した藤森氏の最新記事を公開。
■幼稚園学芸会「赤頭巾ちゃん」の赤頭巾ちゃん役6名の時代があった
かつて、徒競走で順位をつけるのは、走るのが遅い児童を傷つけるという理由から、小学校の運動会の徒競走では、全員が手を繋いで一緒にゴールインするということがあったそうだ。
私は「全員が手を繋いで一緒にゴールイン」の現場を見たことがないので、教育現場でそういうことが実際に実践されていたかどうかについて断言できない。
しかし似たようなことは目撃したことがある。妹の1981年生まれの長女(私の姪)が幼稚園の学芸会のお芝居「赤頭巾ちゃん」で主役を演じるというので、私まで応援(?)に駆り出されたときに目撃した。
幕が上がった舞台には赤頭巾ちゃんの格好をした女児が6人と、赤頭巾ちゃんのお母さん役らしい女児が6人並んでいた。次の場面では、おばあさんの扮装をした女児が6人ベッドに重なりつつ寝ていた。それぞれの役の台詞は6人いっしょに声をあわせて発声されていた。
呆れた私が「どういうこと?」と妹に質問したら、「役のつかない子がかわいそうだから、みんなが役につけるようになってる」という答えが返ってきた。その後は狼のお面をつけた男児が6人登場した。木こりの扮装をした男児が6人登場した。芝居の最後には、狭い舞台上に30人がギッシリ並んで挨拶をして大喝采だった。
別の幼稚園では、桃太郎が大きな大きな桃の中から何人も飛び出してきたそうである。どれだけ大きな桃を幼稚園の先生方は作らねばならなかったのか、その御苦労を想像すると笑えない。
■競争を否定する教育を受けた世代は互恵的ではない?
杉本和行によると、競争を否定して敗者を出さない教育を受けた世代がその後どうなったかという研究によると、彼らや彼女たちは、「利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではなく、やられたらやり返すという考えを持つ傾向が強い」と判明したそうである。
このような結果になったことについて、杉本はこう推測している。「競争によって個人の能力を磨くインセンティブが与えられる。それが他の人の能力を評価することにつながり、それぞれに異なった能力を持った人たちが力を合わせることの必要性が認識されるようになる」のに、競争を否定する教育を受けた世代には、競争にさらされて自分を知るという貴重な機会が与えられなかった。だから、この世界は個人の多種多様な才能が集まり、その個人たちが協力し合うことで運営されているという認識を得る機会も持てなかったと。
確かに私たちは、他人との比較競争によって自分の向き不向きを知る。自分の現実を知る。「僕はやればできるんだ、まだ本気を出していないだけだ」などと自分自身の能力に幻想をいつまでも持っている人間は、競争というものをほんとうには体験しなかったのかもしれない。徹底的に競って負ければ、では他に自分にできることは何か、自分の強みはどこにあるかと真剣に考える。できる人には素直に敬意を払う。
私の知人の親類には医学部合格に10回以上も挑戦している人がいる。3回受験して不合格ならば、それは資質上適性がないということだと思われるし、医療従事者は医師だけではないのだから、他の道を探るべきだと私は思う。しかし、本人は「努力が足りなかった」と主張するそうだ。その努力できるという資質こそが才能なのだが。