人間の「生き延び生き切る能力」とは一体何なのか?【藤森かよこ】
未来は3パーセントの有能な人間しか生き延びることはできないと恐れる必要はない
■全員が手を繋いで一緒にゴールイン世代は互恵的ではない説は根拠なし
ところで、杉本の「あすへの話題」には、競争を否定する教育を受けた世代は「利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではなく、やられたらやり返すという考えを持つ傾向が強い」という結果の根拠になる研究なりデータについては紹介されていなかった。私はその根拠を調べてみた。
その根拠は、大竹文雄(1961-)の『競争社会の歩き方 自分の「強み」を見つけるには』(中公新書、2017)だった。大竹は大阪大学社会経済研究所教授であり、専門は労働経済学と行動経済学だ。
大竹は、「反競争的な教育を受けた人たちは、利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観をもつ傾向が高く、再分配政策にも否定的な可能性が高い。おそらく教育が意図したことと全く逆の結果になっているのではないだろうか」と書いている(『競争社会の歩き方 自分の「強み」を見つけるには』143頁)。
大竹のこの指摘は、調査やデータから導き出されたものではなく、大竹の想像によるものであった。
つまり、「全員が手を繋いで一緒にゴールイン」世代(おそらく現在は40代前半から30代後半)は「利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観をもつ傾向が高い」という説は、根も葉もないことだとわかった。私は安心した。よかった、よかった。
■誰にでも可能性があり能力があるという前提に立つと冷酷になる?
ところで、大竹がそう想像した理由は、杉本の推測とは全く違う。大竹の「競争否定教育を受けた世代は互恵的ではないのではないか」という想像は以下の仮定から生まれた。それを私なりにまとめてみると、こうなる。
ほとんどの人間には等しく能力が備わっている。天性の能力差などはない。もし能力差が著しく見えるとしても、その責任は、適切な環境のもとに、適切な教育を万人に与えることができない世界にある。政治の失敗が原因である。しかし、このような考え方がデフォルトになると、特に目立った環境の劣悪さとか教育程度の低さが認められない人間の不遇は、その人の天性の素質による限界ではなく、本人の怠慢の産物である。自分の怠慢によって不幸や貧困に陥るとしても、それはその人物の自己責任であり自業自得である。なぜ、そのような人々を助ける必要があるのだろうか?
確かに、文盲などゼロに等しい日本において、インターネットの普及により情報にアクセスすることが自由になっている日本において、「知りませんでした」という言い訳は通用しないだろう。「知ろうと努力しなかったから知らなかったのであって、自分が悪いんでしょ」と思われて同情されないだろう。
だから、誰にでも可能性があるとか、誰もが平等に才能を開花させることができるという考え方を前提とした競争否定の教育は、能力がないのではなくて、本人の努力不足が原因なのだからということで、能力を示せない人間に対して冷酷になるという大竹の仮説には説得力がある。