「ヴァハト・アム・ライン」作戦
西方戦線起死回生を狙ったヒトラー最後の賭け
■ヒトラーが命じた第3帝国最後の総力をあげた作戦準備
―ドイツにとって手痛い負け戦が続いた1944年。
東部戦線では年初にチェルカッシー包囲戦、3月にカメネツ=ポドリスキー包囲戦、6月に攻勢作戦「バグラチオン」などが実施され、ソ連軍の強圧の前にポーランド東部全域が失われてドイツ本土のオストプロイセンが危なくなりつつあった。片や西方戦線でも、6月に「オーヴァーロード」作戦、8月にパリ解放、9月に「マーケット・ガーデン」作戦と続き、連合軍はドイツの西の国境たるライン川に迫っていた。かくてドイツの敗北は、もう目前に迫ったものと思われた。
しかしヒトラーは、ジェット機、飛行爆弾V1、弾道ミサイルV2、滑空誘導爆弾やスマート爆弾、最新型のUボートなど、ドイツの最先端技術の粋を凝らした画期的新兵器各種の量産が進めば、戦局を逆転できると考えていた。そこで彼は「時間稼ぎ」と「敵の弱体化」という二つの要件が満たせる、一大攻勢作戦の実施を決めた。
当時のドイツは負け戦続きと連合軍の激しい戦略爆撃の影響で、軍需生産や人員の動員の限界に達していたが、ヒトラーは国の総力を投じた兵力の再建と増強を指示。こうして得られた貴重な戦力を投じる、起死回生の反撃作戦が立案された。作戦名はドイツ語で「ラインの守り」を意味する「ヴァハト・アム・ライン」。いにしえよりライン川はドイツの西の境界とされており、古典的愛国唱歌のタイトルでもあった。
この作戦では、1940年にドイツ軍が西方電撃戦を行った際、道路事情が貧弱で戦車中心の装甲部隊の踏破は困難といわれていたが、まんまと突破に成功したアルデンヌ森林が再び攻勢主軸の進路とされていた。過去の戦例は連合軍も理解していたが、すでに「死に体」のドイツがまさか攻勢に転ずるとは思っていなかったため、同地の防備には、激戦で消耗した部隊が休養と補充を兼ねて配備されており、きわめて脆弱であった。
こうして連合軍の戦線の突破に成功したあと、同軍の兵站拠点のひとつであるベルギーの港湾都市アントウェルペンに向けて電撃的に突進し同軍の戦線を北と南に分断。北に取り残された連合軍部隊を壊滅なり海路撤退させようというのだ。ヒトラーはボルシェヴィキの宿敵ソ連に対しする東部戦線での攻勢も考えたが、アメリカやイギリスの西側連合軍の方がより与しやすいと判断し、西方戦線での作戦実施を決めた。
ドイツ軍はこの「ヴァハト・アム・ライン」作戦に、モーデル元帥のB軍集団隷下ディートリッヒSS上級大将の第6SS装甲軍と、フォン・マントイフェル大将の第5装甲軍などから、完全編成ではないものの可能な限りの補充が行われた約20コ師団を投入した。
1944年12月16日0530時、あまりに静まりかえっていることから、アメリカ軍将兵が「幽霊戦線」と呼んでいたアルデンヌ森林に、突如、ドイツ軍の熾烈な事前砲撃の業火が注がれた。
前哨陣地は次々と粉砕され、M4シャーマン戦車やジープなど車両類が次々に燃え上がる。生き残ったアメリカ兵は自分が逃げるのに精一杯で、倒れた戦友を放置せざるを得なかった。
一瞬にして現出した阿鼻叫喚の地獄絵図とともに、ヒトラー起死回生の最後の賭け、「ヴァハト・アム・ライン」作戦が遂に開始されたのだ。