江戸時代の“健康インフルエンサー”貝原益軒の教え
中高年の健康作りに参考になる『養生訓』【和食の科学史⑫】
■健康の鍵は食養生
江戸時代なかばに江戸の人口は100万人に達しました。この時代としては世界一の大都市です。社会が安定し、生活に余裕が生まれたことで人々の関心は健康長寿に向かいました。とくに重視されたのが食養生です。
幕府の方針もこれと同じで、8代将軍吉宗は、生活の苦しい庶民も医師による治療を受けられるよう、療養所を開設し、食事管理に力を入れました。
この時代の庶民は一日三食で、お米をしっかり食べ、朝食には味噌汁、昼食には野菜の煮物や魚を添え、夕食は漬け物をおかずに、お茶漬けを食べていたようです。
幕末にあたる1850年代に、江戸っ子に人気の倹約おかずを相撲の番付風に並べた『日々徳用倹約料理角力取組』というランキングが出ています。これを見ると、漬け物は、たくあん、ぬか漬け、梅干し、らっきょうなど。そして定番のおかずが煮豆腐、いわしのめざし、貝のむき身を切り干し大根と炊いたもの、芝エビのから煎り、きんぴらゴボウ、煮豆などでした。ご飯によく合い、お袋の味として現代でも広く食べられているものばかりです。
江戸の小石川に建てられた療養所は給食が朝夕二回で、男性患者には一日に白米を4・5合、女性患者には3・6合出していました。病気でもこれだけ食べたのですね。給食の内容は細かく決まっていて、米は柔らかめに炊き、味噌汁は塩分をおさえた薄味で、具は大根、芋の葉などの野菜でした。
現代の私たちは、昔の人は何も考えずに食べられるものを食べていたと考えがちです。とんでもない! 江戸の人たちだって、塩分控えめが大切なことくらい、ちゃんと知っていたのです。
九州北部が大陸からの疫病の侵入口だったことから、続いて長崎に設立された療養所はとくに衛生面に気を配りました。暑い時期には、卵を持つ魚、背中の青い魚などのいたみやすい食品に加えて、水分が多いキュウリ、スイカ、梨などの提供が禁止されました。水分が多いと細菌に汚染されやすいと考えたからでしょう。
当時は天然痘の他に麻疹も頻繁に流行しました。江戸時代265年間に流行が13回ですから、約20年に一回の割合です。麻疹は風邪に似た症状で始まり、高熱とともに全身に赤い発疹があらわれます。自然に回復する人が多かったものの、肺炎になって死亡したり、失明したりすることもある危険な病気でした。
江戸時代後期になると、麻疹は伝染病だと考える医師が一部にあらわれます。しかし、治療といえば、サイの角や、アリクイの仲間のセンザンコウ、カキの殻などを焼いて飲ませるくらいしかありませんでした。それにかわって、もっぱら関心を集めたのが食養生です。麻疹が流行するたびに、麻疹の予防に役立つ食べものや、食べてはいけないものを絵入りで説明した浮世絵が多数作られました。
『麻疹能毒養生弁』と書かれた浮世絵は、麻疹に効く食べものと、避けるべきことがらを相撲の番付のように並べています。図15をご覧ください。当時はまだ横綱という位がなかったため、よいものの最高位である大関が黒豆、関脇が小豆、小結が緑豆でした。豆のそろい踏みです。これに対して、食べてはいけないものの大関が冷えたもの、関脇が生もの、小結がネギとなっています。
豆類が麻疹に効くことはありませんが、食べてはいけないほうの三役はいずれも胃腸に負担がかかる食品で、生ものはいたんでいるおそれもあります。避けることで回復は早まったかもしれません。
まじないも健在でした。しかし、この時代になると、真剣にすがるというよりは縁起をかつぐ意味あいが強く、面白がる余裕も見られます。
図16は、麻疹の軍勢と、当時の麻疹の治療薬の軍勢の戦いを描いた浮世絵の一部です。画像は麻疹側の軍勢で、よく見ると、麻疹が流行するともうかる医師や薬屋の姿があります。画面中央付近に「麻疹方加勢」ののぼりや、薬店を意味する「薬種」の旗印が見えますね。図16には掲載されていませんが、その一方で、食べてはいけないとされた食品にかかわる鮨屋、鰻屋、蕎麦屋などが、麻疹の薬と力を合わせて麻疹に立ち向かっています。流行が早く終わってくれないと商売上がったりなのです。
おそろしい病気だったはずなのに、笑いを誘う絵柄になっています。
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