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戦国武将は皆長生きだった!【和食の科学史⑬】
■日本における近代医学の芽生え
1754年、京都所司代の許可を得たうえで、日本で始めて刑死者の解剖が行われました。解剖は刑場の係官が行い、医師の山脇東洋がこれを観察して『蔵志』という書物にまとめました。絵は簡素で、必ずしも正確ではありませんが、初めて内臓を見たわけですから、やむを得なかったといえるでしょう。『蔵志』の公表は大変な騒動を引き起こし、東洋は厳しく批判され、解剖を許可した所司代がやめさせられる事態に発展しました。
しかし、この解剖は西洋の解剖図の正しさを証明しただけではなく、日本の医学の重要な転換点になりました。「理論と思い込みに縛られてはいけない。事実と経験をもとに結論を出すべきだ」という東洋の姿勢が、のちの医師らに大きな影響を与えたことから、解剖が行われた場所には、現在「日本近代医学発祥之地」と記されています。
その後、各地で解剖が行われるようになり、1774年に有名な『解体新書』が出版されました。『解体新書』は、ドイツの解剖学者が書いた本のオランダ語訳を、さらに日本語に翻訳したものです。オランダ語の『解体新書』を見ながら解剖に立ち会った医師の杉田玄白、前野良沢らが、その記述があまりにも正確なのに驚いて、日本語への翻訳を決意したといわれています。
翻訳といっても、オランダ語と日本語の辞書すらなかったため不正確な部分もありましたが、『解体新書』の出版をきっかけに、人の体の理解が飛躍的に進みました。その50年後には、より正確に翻訳して解説を加えた『重訂解体新書』も出ています。
この時代に、それまで「厚腸」「薄腸」と呼ばれていた腸が、「大腸」「小腸」と記載されるようになりました。扁桃腺の「腺」や、膵臓の「膵」という字も当時の日本で作られたものです。
1804年には、紀伊、今の和歌山県の医師、華岡青洲が、世界で初めて患者に全身麻酔をほどこして乳がんの手術を行いました。欧米人が全身麻酔の手術に成功するのは、それより40年もあとのことです。青洲のもとには全国から乳がん患者が集まり、152名の手術を行った記録があります。図18は手術の手順を図で示した巻物で、弟子たちは丁寧に描き写して勉強したそうです。
青洲が使った麻酔薬は数種類の薬草を配合したもので、開発に20年の歳月がかかりました。青洲と、その家族の苦労は1966年の小説『華岡青洲の妻』に描かれ、舞台化、テレビ化を通じ、よく知られるようになりました。