『三河物語』は戦国の1次資料などではなく、単なる老人のボヤキだ!
1次資料のごとく扱う人が多いが…
■「朝日新聞・岩波書店全盛の時代」
たとえば、みなさんは、2002年9月17日の前の日本がどんな国だったかということをきっと忘れているでしょう。
時の内閣総理大臣小泉純一郎が北朝鮮を訪れ、時の朝鮮労働党総書記・金正日と第1回目の日朝首脳会談を行った日が9・17です。北朝鮮側はこの日に初めて、日本人を拉致した事実を認めて謝罪しました。
今でこそ、ネトウヨ本が幅をきかせていますが、右翼、保守どころか中道ですら発言の場所がなかったのが9・17前の日本です。朝日新聞・岩波書店全盛の時代と言ってもいいでしょう。
私は1990年代、中道を自称する人に、「君には愛国心はないのか」と質問したことがあります。すると即答で、「僕にだって祖国への愛国心はあります」と返してきました。私はその人を共産主義者だと思っていたので驚いて真意を聞くと、そのココロは「祖国の祖は、ソ連のソです。労働者の祖国はモスクワにあります」でした。
実話ですが、ソ連が存在していた頃は、今となっては信じられないくらいの時代だったのです。朝日・岩波全盛時代の昔と、ネトウヨ本隆盛の今、まるで別の日本です。
『三河物語』で英雄視されている松平清康が本当に立派な人だったかどうかはわかりません。そこそこ勢いがよく、少しばかり力を持ち始めたかなと思ったら「森山崩れ」であっという間に殺され、そのひとり息子の広忠は当時まだ10歳で苦労を重ねます。広忠は大叔父の信定に岡崎城を奪われ、流浪するとともに命も狙われ、今川氏輝の計らいで三河に戻り、やっと岡崎に帰城します。しかし、23歳でこの世を去ります。『三河物語』はただ「病死」としていますが、家臣に殺害されたとしている史料もあります。
広忠のひとり息子が後の家康こと竹千代ですが、三河の家臣たちはみな「凄かった」清康の生まれ変わりのように思っていたようです。広忠には実績が本当に無いので、少しくらいは勢いが良かった清康を美化して「松平家の希望」としたのです。
今川家の配下となる松平家の様子は、まさに大日本帝国に侵食される李氏朝鮮です。
松平家は跡取りの竹千代を今川に人質として差し出します。ところが、竹千代は織田に誘拐されてしまいました。寝返りを求める織田に対し、広忠が「殺せるもんなら殺してみろ」と開き直り、今川への忠誠を示します。しかし、その広忠の方が先に死んでしまい、父子は二度と会えませんでした。
その後、人質交換で竹千代は今川に送られ、その間、三河が今川に軍事占領され、三河武士団は百姓をしながら重税に耐え、軍役に駆り出されます。忍従の日々は12年に及びます。「日帝36年」ならぬ「今川12年」です。今川に支配される松平のイメージ、大日本帝国に屈服した朝鮮人の如く描かれるのが常です。