敵味方は一瞬で変わる。生き馬の目を抜いた徳川家康のやり方
今川の悪事を過大に書きたて、現代にまで伝えている
■家康は「信長の盾」になっていた
現実の織徳同盟と呼ばれる同盟を見てみると、その実際は、家康が「信長の盾」になっていることがわかります。
ただ、本来同盟とはそういうもので、お互いの利害を調整して合意し、維持するものです。織徳同盟のおかげで、信長も家康も二正面作戦を展開しなくてすみました。「信長が西の京都に向かい、家康が東の守りを固めさせられた。信長にだけ都合が良い同盟だ」とするのはさすがに言い過ぎです。そもそも、家康は天下なんか目指していないのですから。
家康が天下を取った後に、「横暴な信長の前に、徳川には他に道がなかった」と苦難の印象を強調するプロパガンダに、引っかかる必要はありません。ちなみに、松平家はこの頃に「徳川」と改名します。「徳川家康」の誕生です。三河には「松平」姓の土豪が多すぎたので、格の違いをアピールするための改名です。戦国時代こそ、言葉が武器なのです。
さて、永禄6(1563)年、「三河一向一揆」という大事件が起こります。通説では、桶狭間以降の家康が今川家の支配を脱しながら三河を領国化していく過程で生じた最大の戦い、とされています。三河本願寺教団および反家康連合との戦いです。つまり、内ゲバです。三河武士団は結束が高いとはよく言われながらも起きてしまった凄惨な内ゲバでした。
後に家康の懐刀となる本多正信は、一向一揆側に与した武将でした。その後、許されて家康のもとに帰参するのに5年以上かかっています。NHKの大河ドラマ『真田丸』で近藤正臣が演じたので、覚えている方も多いでしょう。
三河一向一揆については前掲『家康研究の最前線』に、仏教学者・安藤弥氏の詳しい論文が掲載されています。その中で安藤氏は「一部の門徒武士が、家康に離反して一向一揆側に走った理由を、反家康・親今川の文脈のみで理解することはできない。本願寺門徒だから一向一揆に与するという心情と行動については、やはり信仰の問題も含む別の文脈を用意する必要がある」と述べています。
当時、一向一揆は日本中を席巻していました。中東におけるイスラム原理主義のようなもの、フェイスブック革命みたいなもので、国境を飛び越えて展開していました。
北陸をはじめ近江(滋賀県)でもしょっちゅう起きていて、国境に関係なく勝手に民衆が入り込み、個々の武力は弱いくせに数だけ多くて、いきなり蜂起しては大名を困らせるといったことを繰り返していました。なびく人間が多くなれば、結局は宗教問題ですから主君の言うことなどは聞かず、大変な内ゲバ騒動になったわけです。さすがにこれは三河武士団も記録としてごまかしきれなかった、というところでしょう。