「姉川の戦い」にまつわる2つのウソ
単なる小競り合いにすぎなかった。なぜ過大にあつかわれるのか。
■戦国時代の戦いは間接侵略(調略+プロパガンダ)
家康の領土の三河・遠江は東海道、信玄の新領土の駿河こそ東海道ですが、家康から見れば本拠地の甲斐・信濃は北にあたります。信玄は国境侵犯を繰り返し、三河・遠江の北部を削り取っていきます。「神君は三方原以外無敗」というのが大噓だとわかるでしょうか。国境紛争では連戦連敗なのです。
ただ、家康の言い分だと、「直接乗り出していった戦いでは1敗」ということなのかもしれません。ここで、戦国時代の戦いが間接侵略(=調略+プロパガンダ)だということを思い出しましょう。
この当時の信玄と家康だと、明らかに信玄の方に勢力があります。国境の土豪は身の安全を図るために、戦う前に信玄の方になびいていくのです。おさらいですが、合戦は「最後のセレモニー」です。
合戦そのもので大将首が獲られ、家そのものが傾いた例など桶狭間くらいで、例外中の例外です。
ついでに言うと、日本人の合戦イメージは「騎馬武者が刀を振るって斬りあう」でしょうが、そんな戦いは八幡原の戦い、ただ1つです。八幡原の戦いとは、第4回川中島の戦いのことで、上杉謙信が武田信玄めがけて切り込んだという有名な戦いです。謙信と信玄の直接対決は、軍事史家の海上知明先生によれば「検証すればするほど、あったとしか思えない」そうです。詳しい検証は、海上知明『信玄の戦争』(ベスト新書、2006年)を参照のこと。
とは言うものの、江戸時代の人たちからして、戦国時代のすべての戦いが八幡原の戦いのようだったと思い込んでしまっています。大軍と大軍が、弓鉄砲を射かけ、槍隊が突撃し、騎馬武者が斬りあう。実に絵になります。
それにくらべて調略は地味です。地元の市長を籠絡するのに、買収できなかった場合には市長選で対抗馬をたててそいつを落選させる、みたいな感覚で小競り合いをやります。甲州砂金で言うことをきかなかったら、軍隊で攻めていって乗っ取るわけです。何のドラマもありはしません。