江華島砲台の意味―前篇
外川淳の「城の搦め手」第101回
かつて『歴史人』でも 日清戦争に関して特集したことがあるが、私も「勃発の理由」などを担当した。雑誌では、紙数の関係から語り尽くせない部分もあった。そこで、「BESTTIME」を利用し、江華島事件の意味を語ってみたい。
じつは、私は世界史や東アジア史については、大学受験生以下のレベルの知識しか持ち合わせていない。
そのため、江華島事件というと、日本海軍の軍艦と朝鮮の砲台と間で繰り広げられた紛争についての知識があるだけで、フランスとアメリカも江華島に攻撃を加えたという歴史的事実を恥ずかしながら知らなかった。
フランス艦隊は、約1か月にわたり、江華島の中心部を占拠。アメリカ艦隊は、江華島砲台に砲撃を加えた上で、上陸部隊を派遣して砲台を占拠した。
一方、日本軍の参加兵力は小型の蒸気式軍艦「雲揚」一隻のみ。フランス軍とアメリカ軍と比較すると、月とスッポンほどの格差があった。
そのため、日本側の戦闘記録では敵の砲台を破壊したとされるが、朝鮮砲台から砲撃を受けて応戦したという事実だけを残し早々に撤退したと思われる。
つまり、朝鮮サイドは、フランス艦隊とアメリカ艦隊の攻撃を受けても、交渉に応じなったのに対し、たった一隻の日本の小型船と交戦した結果、鎖国政策を放棄したということになる。その原因は、朝鮮王朝内部の政権交替によるが、詳細はまたの機会に。
私は日本の台場を研究している関係から、以前から江華島事件に登場する朝鮮の砲台について関心があった。
アメリカ軍は江華島を占拠すると、同行した写真家のベアトが砲台や戦場の様子を撮影。そのため、朝鮮の沿岸砲台が煉瓦状の石を積み上げた石塁によって構成されていることがわかる。
またネットで検索したところ、砲台は史跡として保存されていることがわかった。
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=4092
私が気軽に外国へ行くタイプであれば、仁川国際空港に近い江華島へ探査に行くところ、外国は苦手であり、とくに韓国はお手上げ状態のため、今回と次回は現物写真なしで進行することをお許しください。
次回に続く