駿河守護の今川家に遠江を奪われた斯波氏
シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」②
■三管の名門・斯波氏は尾張でも利用されるだけの存在に
尾張で没落していた斯波義廉の子義俊が名目とはいえ越前の守護の地位につく一方、斯波義敏とその子義寛は、越前を完全に失い没落してしまう。そのような斯波義敏・義寛父子を迎え入れたのが、尾張下四郡を支配する守護代の織田敏定であった。織田敏定は清須城を本拠として、上四郡を支配下におく織田敏広と対立しており、斯波義敏・義寛父子を名目上の守護とすることで権威を高めようとしたのである。
その後、尾張では、義寛の子義達も守護として擁立されたが、政治の実権はまったくなかったといってよい。
永正5年(1508)には、斯波氏の守護領国であった遠江に駿河の今川氏親が侵攻し、実力によって幕府から遠江守護職を得ているが、織田氏が動くことはなかった。さらに三河へと侵攻した今川軍が松平氏に敗れたことにより、斯波義達は、三岳城の井伊直平や引馬(浜松)城の大河内貞綱といった遠江の国人らに支援され、反撃に乗り出していく。
しかし、井伊氏の三岳城が落城し、大河内貞綱が降伏したことで、斯波義達は尾張への撤退を余儀なくされた。さらに、永正13年には、引馬城を奪還した大河内貞綱とともに今川氏に抵抗したが、引馬城は落城してしまう。
斯波義達は、足利一門ということで一命は助けられたものの、遠江をも完全に失ったのである。
その後、斯波氏は尾張守護代の織田氏に名目的な守護として擁立されることで生き延びるが、斯波義達の子斯波義統は、織田氏の傀儡でいることに嫌気がさしたのであろうか。守護代織田信友の家老であった織田信秀に接近したため、信友に暗殺されてしまったのである。義統の子義銀は、清須城を脱出して信長の居城那古野城に逃れた。
弘治元年(1555)、斯波義銀は織田信長に奉じられて清須城を落とし、父の仇である織田信友を滅ぼすことができた。そして清須城に入って名目上の守護となったが、傀儡であることにかわりはない。やがて尾張を統一した信長の勢威が高まるなか、今川氏に内通したとの理由で尾張から追放され、斯波氏は滅亡してしまったのである。
(次回に続く)