日本人の元祖ダンディ・白洲次郎、GHQと渡り合った勇敢さの陰に意外なナイーブを併せ持っていた!
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第59回 ~白洲次郎~
歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命と用語の説明はページの最後をご覧ください。
今回は、第二次世界大戦後、GHQとの折衝にあたり、自分の信条を貫いた白洲次郎を四柱推命鑑定する。鑑定の結果、かなりの繊細さが垣間見えた。
白洲次郎:(1902‐1985)
生年月日:1902年(明治35年)2月17日
まずは、命式表の中で、自然界での役割を表す重要な場所、日柱の干支を読み解いていく。
○日柱の干支:「辛未」(かのとみ)
これは、「辛(かのと)」は自然界の物質に表すとダイヤモンドや宝石、「未」は季節で夏を意味することから、「辛未」は夏のダイヤモンドと解釈できる。ダイヤモンドというと、美しくしかし繊細なイメージ。ダイヤモンドはもともと石であるが、磨いて磨いて磨くことによって、光り輝くダイヤモンドとなる。そのように、「辛」の人は困難が多いものの、それに打ち勝つ力を備えている。
兵庫県芦屋に生まれた次郎。父は独立して綿の貿易商をしており、大金持ちであった。父からは法外なお小遣いが与えられており、中学生の時にはすでに自動車を持っていたという。豪傑で傍若無人、わがままな性分だった父を次郎はずっと嫌悪していたが、結局何から何までそっくりだったという。次郎は神戸一中に入学すると、乱暴者の癇癪持ちでいつも担任を困らせていた。ダイヤモンドのように繊細で、ガラスのハートの持ち主だったのだろう。何か気に障ることがあるとすぐに怒り、相当な荒くれ者だったようである。中学卒業後、そんな手に負えない次郎を親はイギリスのケンブリッジ大学に留学させた。次郎自身のことばによると、それはまさに「島流し」であった。
大学の入学試験結果は最低点。入学当初、次郎は最も出来の悪い生徒だった。しかし、その後奮闘し、2年後には最も優秀な学生の一人になっていたという。この留学中の9年間は次郎にとって苦労の連続であったが、これこそが次郎を磨いた経験だったのだろう。英国紳士からプリンシプル(行動規範)を学び、留学生活を経て帰国した次郎は、紳士に豹変していたという。辛く稀有な経験こそが、次郎を光り輝くダイヤモンドに変えたと言っても過言ではなかろう。