「憎らしい相手」に対する怒り、復讐心から解放されない時、どうすればよいか?【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵
一方で「赦さない」κρατέωはどうか。こちらは、強い力で対象を捕まえて離さないことである。もともとは「強い力を持っている」という意味があったそうだ。しかし、もしも強い力を持っていない弱い人が、それでも強い力で対象を捕らえ続けなければならないのだとしたら───無理をし続けたその人は、消耗してしまうだろう。誰かを赦さないことや、つらい記憶をめぐってあれこれ考え続けることは、よほど強靭な精神力がない限り、疲れ果ててしまうことなのである。
だったら、相手を赦せばいいのか。つらい記憶を手放せば、つまり忘れてしまえたら、それで万事が解決するのか。だが、ここで「怒るな、忘れてしまえ」と結論するなら、あまりにも人間の現実を軽視し過ぎている。聖書によれば、人間は神に似せて創られた存在であるという。ところが、その神自身が聖書のなかで何度も怒る。それも、キレるといってもいいレベルで激怒する。その神に似せて創られた人間であるのなら、怒りもまた自然な、神からの贈りものであるにちがいない。だったら、赦しというのは怒りを強引に抑え込んで、こめかみをピクピクさせながら「「いやぁ~いいんですよあのことは!気にしないでください」と作り笑顔をすることではないはずだ。
わたしは『シンデレラ』の、怒りのもっていきかたに感動したのだった。そう、シンデレラは怒っている。自分を虐待してきたトレメイン夫人に対して、復讐への燃え上がる想いを秘めている。だからこそ、シンデレラは自分自身を救うために、夫人に対して絞り出すようにと言うのだ、「あなたを赦します」と。なぜ、この赦しがシンデレラ自身を救うことになるのか。それは、この赦し、すなわちトレメイン夫人を捕まえず解き放つことが、シンデレラ自身をも解放することになるからである。夫人への憎しみを手放し、心が軽くなった彼女は、今や夫人に対してではなく、自分自身に対して微笑することができるのだ。もはや彼女は、憎悪に焼き尽くされることは決してない。
シンデレラのトレメイン夫人への赦しは「わたしはあなたにこだわらない。あなたにこだわって、疲れ果てることを選ばない。わたしはあなたに復讐しない。復讐して、さらに自分が傷つくことを選ばない。わたしは自分自身のために、あなたを手放す」との宣言なのである。そう宣言することによって過去の呪縛から解放されたシンデレラは、思わず微笑んだのであった。彼女を救い、解放したのは王子ではなく、彼女自身だったのである。
一方でシンデレラによって解放された、すなわち彼女から赦され、復讐を免れたトレメイン夫人は、国を去ってゆく。夫人は二度と、シンデレラの視界に入ってくることはない。それはシンデレラの人生に、今後トレメインが二度と介入してくることはないであろうことを暗示している。シンデレラは今後、実生活だけでなく記憶においても、虐待の過去に支配されることはないのである。