『消えたお妃候補たちはいま』から紐とく、天皇陛下の雅子さまへの想い―前編
天皇陛下と皇后雅子さまがご成婚に至るまでを“皇室の婚活”という視点で読む
例えば1980(昭和55)年2月、成年式を目前に控えた記者会見で、初めてご自身の言葉で語った理想の女性像。
「中学、高校はまったく男だけの中で育って、大学に入ってまた共学になって一種の新鮮さを感じている段階なんです。ですから、理想像というのは徐々にできてくるんじゃないかと思います。そう、竹下景子さんなんかいいと思います」
当時26歳で「クイズダービー」4枠に君臨した“三択の女王”こと竹下景子さんをあげた19歳。確かに理知的なキャラクターは魅力的だったが、「お嫁さんにしたい女優No.1」といわれていた世間の風潮を取り入れた部分もあったのかもしれない。
同時期、宮内庁が行っていたお妃探しも良家の子女にそれとなく連絡を取る程度で、ひと声かければ出会いの場を設定できるだろうと楽観的なものだったという。
しかし、候補とされた女性たちは違う。当人も家族もマスコミの取材攻勢に苦しめられ、民間から皇室に入られた美智子さまの苦労と激ヤセぶりを知る両親によって、“お妃候補返上のサイン”として留学させられたり、急いで縁談をまとめられたりしていった。
ちょうど1980年は、現在の大手結婚相談所「楽天オーネット」の前身である「オーエムエムジー(OMMG=Osaka Medical Marriage Guidance)」が設立された年であり、結婚や良縁探しに敏感な人たちにとっての婚活黎明期にあたる。しかも、結婚への具体的な行動開始時期は、結婚の先に出産を見据えている女性(またはその親)の方が男性より5~10年先行するものだ。
浩宮さま、宮内庁サイドと候補女性サイドには、意識の上ですでに大きな差があったことは想像に難くない。
そして2年後の1982(昭和57)年、学習院大学を卒業する直前の会見では
「理想像としては明るくて、健康的でスポーツ好きな人がいいです。付け加えれば料理上手な人がいいですね」
と話している。より具体的にはなったが、当たり障りない一般論にも聞こえる。当時、浩宮さまと同年代のお妃候補たちは大学卒業後に就職するケースが目立ち、耳にピアスの穴を開ける人もいたという。
「OLは許されない。お妃になる女性に上司がいてはいけないから」
「ピアスなどで体の一部に傷をつけるような女性はお妃になれない」
といった、現代ではツッコミ待ちとしか思えないような「お妃の条件」が宮内庁に多々あったとされる。むろん当時の一般社会の現実とも乖離が大きく、女性たちは次々に候補返上のアクションを起こしリストから離脱していった。
由緒正しすぎる家柄、文句のつけようのない学歴、優しい人柄……いうなれば婚活市場における“日本一のハイスペック男子”ともいえる存在が、恐ろしいほどマッチングしなかったという事実に愕然とせざるを得ない。
なかには皇室に嫁ぐことをそこまで敬遠しない候補者もいたそうだが、父親が急逝し「お妃の条件」の一つに当てはまらなくなったためリストから消されたという。
KEYWORDS:
消えたお妃候補たちはいま ―「均等法」第一世代の女性たちは幸せになったのか
小田桐 誠
皇后雅子さまと他の候補者たちを分けたもの
それぞれを待っていた未来は
令和時代が幕を開け、皇后となった雅子さまに大きな注目が集まっている。現在の皇室も結婚問題に揺れているが、天皇陛下が雅子さまを射止めるまでの「お妃選び」も、初めてお相手候補の報道が出てから15年という長期にわたり世間の耳目を集めるものであった。
その間、リストアップされた有力候補者たちは本書に登場するだけでも70名。雅子さまとのご成婚に至るまでに、家柄も学歴も申し分ない候補者たちがなぜ、どのようにリストから消えていき雅子妃が誕生したのか。
外務省でのキャリアを捨てて皇室に入られた雅子さまと、消えたお妃候補者たちは同世代で、いずれも「男女雇用機会均等法」第一世代。四半世紀を経た今、果たしてそれぞれの幸せをつかんでいるのか――克明に追ったルポルタージュ。