奥羽越列藩同盟の実態―前篇
外川淳の「城の搦め手」第106回
この「BEST TIMES」にて連載を開始してから3年4ヶ月になる。他にも長く連載されている方がいらっしゃるが、今後も週に1回をメドにして更新を続けたい。
雑誌『歴史人』では、戦国エンターテインメントという冠を外し、昨年から幕末ものを特集する機会が増えたようで、私も何度か、「幕末の志士」関連の記事の監修・執筆に参加している。
しかし、誌面では、語り尽くせない部分もあったので、「BEST TIMES」を利用して、今回は、「奥羽越列藩同盟」の意義について語ってみたい。
会津藩と庄内藩を新政府に対する恭順へ導くために結成された奥羽越列藩同盟については、「積極的に評価する説」と「否定的見解」に二分される。
原口清氏は、列藩同盟に対し、国家の基本方針を衆議によって決定する公議政体論を実現させたとして高く評価。
対する石井孝氏は、「遅れた封建領主のルーズな集合体」としてまったく評価していない。
奥羽越列藩同盟は、白石城下で締結されたことから白石会盟とも称される。
学生時代の私は、石井氏の酷評への反発から、仙台藩の軍制改革を卒論のテーマとして掲げ、奥羽越諸藩が「遅れた封建領主」ではないことを証明しようとした。
仙台藩は白河戦線での連戦連敗を教訓とし、額兵隊を創設し、最強部隊へと仕立てようとした。大学4年生の私は、宮城県図書館の近くの旅館に泊まり込み、数少ない関連史料を丹念に調査した結果、額兵隊を中核とする仙台藩の軍制改革について、それなりの成果をえることができた。
仙台藩は、額兵隊の相馬戦線への出撃を検討したが、降伏を決断。額兵隊は、榎本艦隊に合流して戦いの舞台を北へ移したが、結果的には奮闘及ばず、降伏を余儀なくされる。
当時、卒論を書き終えた段階では、遅れた封建領主という酷評への反論ができたような気持ちはあったのだが……。
その、奥羽越列藩同盟の件について、詳しくは次回へ続く。