奥羽越列藩同盟の実態―後篇
外川淳の「城の搦め手」第107回
奥羽越列藩同盟に対し、「公議政体論が現実化した連合体」と評価していた学生時代から時間が経過し、現在の私は、「遅れた封建領主のルーズな集合体」と分析している。
仙台藩の額兵隊を中核とする軍制改革は、付け焼刃、または泥縄であり、古い体制から脱却する要素はなかった。
奥羽諸藩は、滅び行く幕府に殉じたという人情論により、幕末維新史の流れを読み解こうとする考えも根強く存在する。
だが、組織に忠義を尽くして自滅するほど、馬鹿げたことはない。
奥羽諸藩は、巨大消費地である江戸へ米を提供することにより、藩財政が成立していたため、幕府との経済的密着度が西南諸藩よりも強かった。
くわえて、18世紀になると、蝦夷地警備を幕府から命じられ、藩財政は破綻状態になり、幕府への依存を強めた。
南部藩は蝦夷地警備を命じられると、道南各所に陣屋を築造。その構造は戦国時代と進化のない空堀と土塁によって形成されていた。
西南諸藩が財政改革、殖産興業、対外貿易の推進により、幕府からの自立する傾向を強めたのとは対照的だった。
仙台藩は、新政府軍と対戦中、藩士を横浜に潜入させ、アメリカ商人との間で武器を輸入し、その見返りとして特産品を輸出する契約を結び、松島の寒風沢港において外国商船と交易をした事実もあった。
この交易により、購入した武器や装備が額兵隊に装備されたのだが、すでに手遅れであり、実戦には役に立たなかった。
額兵隊は、幕府陸軍だけにしか存在しなかった工兵部隊を創設。白河戦線における陣地戦で連敗を喫した戦訓を生かしたともいえる。
白河城を奪われた同盟軍は、繰り返して奪還攻撃をしかけるが、「遅れた封建領主のルーズな集合体」の特性を最大限に発揮し、攻撃をしては敗走を繰り返す。
額兵隊における工兵隊の幹部以外の隊員のすべては足軽によって構成されていた。このことは、工兵の必要性を認めながらも、幹部たちが陣地を築く任務を武士の仕事とみなすことなく、階級的差別意識から脱却できず、工兵や近代的軍隊の本質を理解していない証明だといえよう。
今回は、城から離れたようではあるが、末尾に陣地を築く工兵の話を交えることにより、帳尻があったと自負する。