「死にたい」が「殺したい」になるとき。登戸事件にも通じる、平成あの事件
事件から学べることは多いが…防止は簡単ではない
■勝ち組へのコンプレックス
この人の場合、言い分をすべてうのみにはできないが、いわゆる勝ち組へのコンプレックスは強かったようだ。そういう意味では、7年後の秋葉原通り魔事件にも通じるものがある。奇しくも同じ6月8日に行なわれた犯罪だ。
犯人は25歳で、犯行の朝早く、携帯サイトでこんな予告をしていた。
「秋葉原で人を殺します 車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら」
この言葉通り、歩行者天国の秋葉原で7人を死亡させた。その根底には「高校出てから8年、負けっぱなしの人生」「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」という現実からくる「勝ち組はみんな死んでしまえ」「そしたら、日本には俺しか残らないか あはは」という自虐的な恨みつらみがあった。
もちろん、それが無差別殺人をしていい理由にはならない。教育熱心な母親がストレスでも、就職や恋愛、趣味のインターネットでうまくいかなくても、自分自身で引き受け、なんとかするしかないからだ。巻き添えを食った被害者にとってはたまったものではない。
さらに、こんな風景も見られた。駅前の歩道橋から、殺人現場を携帯電話のカメラにおさめる大勢の野次馬たち。秋葉原がコスプレ撮影などの聖地だったとはいえ、状況が状況だけに異様でもあった。
じつはこの犯人も、また、3ヶ月前に起きた土浦連続殺傷事件の犯人も、ともに自殺願望を口にしており、まさに「自殺が他殺になるという現象」だった。ちなみに、前者は酒鬼薔薇聖斗や佐賀バスジャック事件(平成12年)の少年と同学年で、後者はその1学年下だ。同世代として、なんらかの心理的影響を受けてもいたのだろう。
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『平成の死: 追悼は生きる糧』
鈴木涼美さん(作家・社会学者)推薦!
世界で唯一の「死で読み解く平成史」であり、
「平成に亡くなった著名人への追悼を生きる糧にした奇書」である。
「この本を手にとったあなたは、人一倍、死に関心があるはずだ。そんな本を作った自分は、なおさらである。ではなぜ、死に関心があるかといえば、自分の場合はまず、死によって見えてくるものがあるということが大きい。たとえば、人は誰かの死によって時代を感じる。有名人であれ、身近な人であれ、その死から世の中や自分自身のうつろいを見てとるわけだ。
これが誰かの誕生だとそうもいかない。人が知ることができる誕生はせいぜい、皇族のような超有名人やごく身近な人の子供に限られるからだ。また、そういう人たちがこれから何をなすかもわからない。それよりは、すでに何かをなした人の死のほうが、より多くの時代の風景を見せてくれるのである。
したがって、平成という時代を見たいなら、その時代の死を見つめればいい、と考えた。大活躍した有名人だったり、大騒ぎになった事件だったり。その死を振り返ることで、平成という時代が何だったのか、その本質が浮き彫りにできるはずなのだ。
そして、もうひとつ、死そのものを知りたいというのもある。死が怖かったり、逆に憧れたりするのも、死がよくわからないからでもあるだろう。ただ、人は自分の死を認識することはできず、誰かの死から想像するしかない。それが死を学ぶということだ。
さらにいえば、誰かの死を思うことは自分の生き方をも変える。その人の分まで生きようと決意したり、自分も早く逝きたくなってしまったり、その病気や災害の実態に接して予防策を考えたり。いずれにせよ、死を意識することで、覚悟や準備ができる。死は生のゴールでもあるから、自分が本当はどう生きたいのかという発見にもつながるだろう。それはかけがえのない「糧」ともなるにちがいない。
また、死を思うことで死者との「再会」もできる。在りし日が懐かしく甦ったり、新たな魅力を発見したり。死は終わりではなく、思うことで死者も生き続ける。この本は、そんな愉しさにもあふれているはずだ。それをぜひ、ともに味わってほしい。
死とは何か、平成とは何だったのか。そして、自分とは――。それを探るための旅が、ここから始まる。」(「はじめに」より抜粋)