米中欧の為政者は「コロナ禍」を政治的に利用したけれど、日本の為政者は何をしたのか?【藤森かよこ】
21世紀の日本の為政者は18世紀の清朝乾隆帝に及ばない
■コロナ禍と清朝中国の霊魂泥棒妖術騒動が似ている?
知人の言葉を借りれば、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような日本の為政者の動きはさておいて、ある日私の知人の中国人ビジネスマンが言った。「コロナ騒ぎは、1768年の中国の霊魂泥棒妖術事件にスキームが似ている」と。
この方は、日本語にも英語にもフランス語にも堪能な教養豊かな方である。この方の言う「1768年の中国の霊魂泥棒妖術事件のスキーム」とは何か?
この事件については、中国学の泰斗として知られ、シカゴ大学やハーバード大学で教鞭を取ったフィリップ・A・キューン(Philip A.Kuhn,1933-2016)の著書Soulstealers:The Chinese Sorcery Scare of 1768 (Harvard University Press, 1990)に詳しく書かれている。原題を直訳すれば、「魂を盗む人々—1768年の中国の妖術恐怖」だ。
この歴史書は日本でも翻訳されている。故三重大学教授の谷井俊仁と谷井陽子の優れた翻訳により、『中国近世の霊魂泥棒』(平凡社)が1996年に出版されている。すでに絶版状態ではあるが、古書店から入手可能である。
■1768年の清朝の霊魂泥棒妖術騒動とは何か
「1768年の中国の霊魂泥棒妖術事件」とは以下のような事件であった。
1768年1月に揚子江の下流にある浙江省の省都である杭州の北30キロの地点にある徳清県城の城壁の東の端の水門と橋が崩れた。知県の阮(げん)は、水門と橋の再建のために石工の呉東明を隣の仁和県から雇った。
この呉東明に沈士良という農民が奇怪な依頼をした。乱暴狼藉ばかりの甥ふたりの名前を紙に書きつけて、橋の再建に必要な柱を打ち込むときに、柱にその紙を貼りつけて欲しいというのだ。
建造物の基礎に名前を書いた紙を貼り付けると建造物は強固になるが、名前を書きつけられた人々は魂を盗まれ、病気になったり、死んだりする妖術があり、石工とか大工など建築業者は、その妖術を使うことができるという噂が揚子江の下流の江南地域に広まっていた。
沈士良は甥たちを懲らしめたかったから妖術使いの石工を探していた。石工の呉東明は、当然そんな沈の依頼を断った。しかし、後日に彼はとんでもない災難に見舞われた。
4月に徳清県の計兆美は家出をして杭州にやって来た。浮浪者の風体の計の徳清県訛りを聞きつけた群衆から、「お前も橋を作るために魂を盗みに来たんだろ!」と責めたてられ、計は地元の治安責任者のもとに連行された。
すっかり怖気づいた計は、自分は霊魂泥棒で、石工の呉から霊魂を盗めと命じられたと嘘の自白をした。石工の呉は県庁に引っ張られた。計が呉を見分けることができるかどうか首実検がされた。もともと計は石工の呉とは面識がなかった。だから呉のことを見分けることができなかった。呉は釈放され、嘘の自白をした計は杖で打たれ、公衆にさらしものになった。
しかし、似たような告発を、石工の呉はまたも受けた。根も葉もないことなので、今度も釈放された。それほどに、民衆の間に霊魂泥棒恐怖は広がっていた。
浙江省当局は、この種の実体のない迷信騒ぎの扱いに困った。それでも、告発者も告発された者もきちんと取り調べて事実関係を明らかにすれば、事はおさまると考えた。しかし、魂泥棒への人々の恐怖は当局の想像以上に強かった。
同年4月に杭州の寺を足場に近隣の村々で布施を受けていた4人の仏教僧(遊方僧)のうち2人が子どもたちに名前を尋ねた。すると子どもたちの親が霊魂泥棒されたのではないかと騒ぎ立てた。僧侶たちは、浙江省蕭山県庁に逮捕された。清王朝時代は警察機能や裁判所機能も地方行政府が兼任していた。
魂を盗む妖術として「弁髪を切る」という方法もあった。弁髪とは東アジアの北方民族の男性の髪型であった。頭髪の一部を剃りあげ、残りの毛髪を伸ばし三つ編みにして後ろに垂らす。中国清朝を起こした満州族の髪型である。
僧侶たちの所持品が調べられた。彼らは、ハサミと「弁髪を結ぶ紐」や「編んだ髪の切れ端」を所持していた。それで、僧侶たちは誰かの弁髪の三つ編みを切り取り、髪に呪文をかけ魂を盗んだと疑われ、拷問にかけられた。
僧侶たちは、捕り手の蔡瑞に賄賂を渡さなかったので逮捕されたのであり、これは冤罪だと主張した。確かに、捕り手の蔡瑞は賄賂が入手できなかった腹いせに、僧侶の所持品に「編んだ髪の切れ端」を忍ばせ、彼らを霊魂泥棒に仕立て上げようとした。当局は蔡瑞を罰し、僧侶たちを釈放した。
蕭山県の別の土地では、旅回りの鋳掛屋(いかけや)が霊魂泥棒と思われ、地元民に殴殺された。妖術騒ぎの震源地の徳清県の隣の安吉県では、聞きなれない訛りを持つ旅人が霊魂泥棒と疑われ村人に殴殺された。
5月3日に、江蘇省の蘇州でひとりの老浮浪者が紙製のお守りと子どもの三つ編みの髪を所持していたので、霊魂泥棒と思われ逮捕された。当局は、その浮浪者の仲間の浮浪者2人も逮捕した。3人の浮浪者は尋問で拷問を受けたが無実を主張した。明白な証拠も自白もなかったので彼らは釈放されたが、ひとりは収監中に死亡した。
5月始めに、7人の僧侶が蘇州に向かう途中で地元の暴徒に襲撃され、当局に連行された。霊魂泥棒の証拠は見つからず、蘇州の当局は暴徒が僧侶から強奪したものを弁償した。
霊魂泥棒パニックは揚子江下流地域から飛び火し、800キロ上流の湖北省の漢陽まで広まった。6月21日には野外劇を見ていた群衆が霊魂泥棒の容疑者を捕まえ、集団リンチのすえに、その死体を焼いてしまった。
ただの迷信騒動だからということで事態を甘く見ていた当局も、時の皇帝の清朝皇帝6代目乾隆(けんりゅう、1711―99)帝が厳しい調査を命じたので、積極的に霊魂泥棒の摘発を始めた。
11月までの期間に、魂を盗む妖術をかけたという容疑で多くの石工や旅する仏教僧(遊行僧)や浮浪者が逮捕された。皇帝は、霊魂を盗む妖術の元締めがいるはずだと考えた。しかし、逮捕された石工や仏教僧(定住しない遊方僧)や浮浪者たちは、その元締めの名前を明かさなかった。存在しない人間の名前など言えるはずがなかった。その名前を告白した者たちもいたが、名指しされた人物たちを調査しても証拠は見つからなかった。
結局、皇帝はそれ以上の捜査を命じなかったので、当局も捜査を諦めた。証拠不十分で「霊魂泥棒」容疑者たちは釈放されたが、収監中に亡くなった者たちも少なくなかった。噂が立ち始めてから1年ほど経過して、人々の間に広がっていた霊魂泥棒妖術恐怖ヒステリーはおさまった。