戦国時代を地図で表現する限界への兆戦
外川淳の「城の搦め手」第108回
雑誌『歴史人』でも何度か戦国武将の勢力マップの作成を担当してきた。戦国大名の勢力圏を地図で表現することはライフワークといえ、2012年に『戦国大名勢力圏変遷地図』(日本実業出版)を上梓してからも、より正確かつ、わかりやすい表現方法を模索し続けている。
太田城主の佐竹氏は、常陸を中心にして北関東から南奥羽にかけての広大な地域を支配した戦国大名として知られる。
この佐竹氏の勢力圏を地図で表現すると、常陸一国は佐竹氏の勢力圏を示す色で表現される。
だが、佐竹氏が領国として強力に支配するエリアは北部に限定され、軍事進攻によって占領した南奥羽よりも常陸南部エリアの支配力は、強くないのが実情だった。
全国地図のなかで、佐竹氏をはじめ、戦国大名の支配力の地域的格差について、どのように表現するかは、今後の課題としたい。
天正19年(1591)2月9日、佐竹義重は、南方三十三館の当主や一族を常陸太田城に招き、全員を殺害。
梅見の宴もたけなわ、酒に酔った無抵抗の人々を武装した兵士たちが虐殺したという。佐竹勢は、ただちに鹿島郡・行方郡に出兵。
三十三館を制圧するとともに、徹底した検地を実行し、支配地域として統制下に従えた。
佐竹氏は、南方三十三館謀殺事件まで、常陸南部を強力な統制下に従えることができなかった。
佐竹氏は、関東にも豊臣政権の威令が拡大されると、虎の威を借り、独力ではできなかった常陸統一を達成させたのだ。
別の見方をすると、在地性の強い中小領主の抵抗は根強く、彼らは北条と佐竹を天秤にかけ、自立を保とうとした。
秀吉による天下統一とは、土豪や国人と称される中小領主に対し、力で圧倒し、検地によって支配することだった。
中小領主の自立への執念を知ることなく、戦国時代の実態を知ることはできない。