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再び家督争いをする細川家 着々と実権を握る三好家

シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」④

■細川家の家督争いと三好家の台頭

廃嫡される恐れがあった細川澄之『続英雄百人一首』錦耕堂刊/国立国会図書館

 政元を暗殺した香西元長らは、永正4年(1507)7月24日、澄元の邸宅に押し寄せる。家督争いの元凶となる澄元をも亡き者にしようとしたのである。

 しかし、このとき、澄元の補佐役であった三好之長が、澄元を近江の甲賀に落ち延びさせた。この機転により、澄元は殺害されずにすんだといえる。

 こうして、実力で澄元を追放した澄之が、政元の後継者として管領細川氏の家督を継ぐことになった。

 一方、近江に落ち延びていた細川澄元と三好之長も、抵抗を諦めたわけではない。澄之に敗れてからおよそ1か月の間、反攻の機会をうかがっていたのである。

 之長は、政元のもう一人の養子であった細川高国の支援を受け、8月1日、澄之の邸宅を急襲したのである。澄之は敗れて自刃し、香西元長らは討ち死にした。

 翌2日には、近江から澄元が上洛し、第11代将軍・足利義澄から家督の相続を認められたうえ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を与えられている。

 こうして、将軍足利義澄を奉じる澄元が幕府の実権を握ることになったが、その体制が長く続くことはなかった。

 細川政元によって追放されていた第10代の前将軍・足利義材(当時は義尹)が、周防の大内義興の支援を得て、復職を図ろうとしていたからである。こうした動きに対し、澄元と対立しつつあった高国が義材に同調した。高国は和泉守護細川政春の子であったことから、和泉・摂津の国人の多くも高国に味方している。

 永正5年(1508)4月、ついに足利義材が和泉の堺に上陸して入京を果たす。これにより、抵抗の不利を悟った将軍の足利義澄と管領の細川澄元は、近江の六角高頼を頼って落ち延びることになった。こうして、義材が将軍に復職し、高国が管領細川氏を継ぐことになったのである。

細川家の家督争いと三好家の台頭図。 『歴史人』2017年8月号より。

 (次回に続く)

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小和田泰経

おわだやすつね

静岡英和学院大学講師

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)『戦国合戦史辞典 存亡を懸けた戦国864の戦い』『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』『戦国大名の山城を歩く』(ともに新世紀社)など多数。


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