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クリークスマリーネが誇る「高速の暗殺者」Sボート ~俊足自慢の小さな海の殺し屋~

第二次大戦高速魚雷艇列伝②

■クリークスマリーネが誇る「高速の暗殺者」Sボート

第二次大戦の終結にともない、イギリス海軍に降伏したSボートのS204艇。同艇は第4Sボート戦隊に所属していた。低いシルエット、強い波浪による損傷を防ぐため艇体前部に埋没式に備えられた魚雷発射管、避弾経始を考慮して曲面で構成された装甲ブリッジなど、優秀なSボートの特徴がよく見てとれる。

 

 ドイツは第一次大戦中、すでに高速の戦闘艇を運用していたが、同大戦に敗れたため、懲罰的なヴェルサイユ条約によって保有できる兵器に著しい制限を課せられてしまい、大型の水上戦闘艦のみならず、小型の高速魚雷艇すら建造を禁止された。

 だが敗戦後のドイツ・ワイマール共和国のライヒスマリーネ(共和国海軍)は、「ご禁制」の高速魚雷艇ではなく高速対潜機動艇という名目で、また、民間用の高速レジャーボートというもうひとつの隠れ蓑を用いて、将来的に高速魚雷艇へと発展可能な高速艇の研究と開発を秘密裡に進めていた。

 1935年3月16日、アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してドイツの再軍備を宣言。ライヒスマリーネからクリークスマリーネ(ナチスドイツ海軍)となっていた海軍は、大型水上戦闘艦の建艦計画を急遽推進したが、重巡洋艦や戦艦ともなれば、起工から竣工までに年単位の時間が必要だった。しかし高速魚雷艇なら容易に建造でき、その主兵装の魚雷は、「蜂の一刺し」ともいうべき一撃必殺の兵器として、敵の戦艦や空母といった大型水上戦闘艦すら仕留めることができた。

 クリークスマリーネは、既述のごとくライヒスマリーネ時代からこういった事情を見越して、条約下に数隻の実験艇を就役させ、いずれ必要となるであろう魚雷艇の基礎データを地道に収集していた。特に高速艇の建造に造詣が深いリュールセン社が、富豪のオットー・ヘルマン・カーンのために建造した高速プレジャーボートのオヘカII号は、クリークスマリーネの高速魚雷艇Sボートの直接の始祖となった。

 かくして「高速の暗殺者」Sボートは誕生した。ちなみに、冠せられた「S」はドイツ語の「Schnell」、すなわち「高速」の頭文字である。だが第二次大戦中、連合軍は「敵」という意味の「Enemy」の頭文字を冠して、Eボートとも呼んだ。

 Sボートは、第二次大戦勃発直前の時点で、すでに高い完成度を誇っていた。
興味深いのはその「心臓」ともいうべき主機で、敵となるイギリスやアメリカの高速魚雷艇がガソリン・エンジンを搭載しており、ドイツ自身も戦車用主機としては最後までガソリン・エンジンを用いていたにもかかわらず、逆にSボートには最初から最後までディーゼル・エンジンを使用した。

 Sボートはシルエットが低く視認しにくいうえ、大戦初期には敵側のイギリス高速魚雷艇よりも速く、しかも重武装だったので、戦いを優位に進めることができた。ただし小型艇なので北海の沿岸部からフランス敗北後は英仏海峡、ビスケー湾などが主な作戦海域となり、イギリスの沿岸輸送船団や、その護衛に従事する小型駆逐艦や高速魚雷艇などを用いていた沿岸艦艇部隊と、熾烈な戦いを繰り広げている。

 Sボートはよく戦ったが、ドイツが第二次大戦に敗れると、残存の同艇は連合国側に接収された。そしてイギリスはバルト海における秘密諜報機関工作員の潜入・脱出などの任務に活用。またデンマーク海軍は戦後、20隻近いSボートを入手して1965年まで運用していた。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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