世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」5つの謎
巨大天皇陵古墳の成り立ち、内部構造、被葬者etc.
(月刊『一個人』8月号「古代史23の謎」特集より抜粋)
■百舌鳥・古市古墳群とは?
大阪府堺市の「百舌鳥古墳群」、羽曳野市・藤井寺市の「古市古墳群」から構成される巨大古墳群。4世紀後半から6世紀前半にかけて200基を超える古墳が築造され、前方後円墳を中心に89基の古墳が現存している。
■百舌鳥・古市古墳群は、古代の王権が残した巨大なるモニュメント
日本列島には16万基以上もの古墳がある。中でも日本最大のものが、仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)であることは周知の事実。しかし、百舌鳥・古市古墳群にはほかにも、全国2位の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)や3位の履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)などの巨大古墳をはじめ、大小様々な前方後円墳や円墳、方墳が、各4㎞四方の地域に密集しているのだ。
「日本中のどこを探してもこれほどまでにバラエティに富んだ構成の古墳群は見当たりません。だからこそ百舌鳥・古市古墳群は価値があるのです。なぜなら、古墳の形と大きさの多様性は、文献には残っていない古代国家の社会構造と王権の政治的な仕組みを、現代に伝える貴重な遺産だからです」
考古学者の福永伸哉さんはこう話す。百舌鳥・古市古墳群のうち、今回世界遺産の構成資産とされたのは、古墳時代の最盛期である4世紀後半から5世紀後半にかけて築造された49基だ。当時の墳丘の姿や出土品、その場所に築造された理由などをひもとけば、古代国家の成り立ちへと辿り着くことができるという。
「いわば古墳群そのものが、古代王権のモニュメントとして、その歴史を雄弁に物語っているのです」
■圧倒的な存在感を放つ古墳は、政権の威信を「海外」に誇示
築造当時の古墳は、円形・三角形・方形といった幾何学的な図形を組み合わせて立体的に設計された巨大なモニュメント。墳丘斜面は葺石でびっしりと覆われ、平坦面のテラスにはベンガラで朱く塗られた埴輪がずらりと並べられていた。仁徳天皇陵古墳では、埴輪の数は約3万本といわれる。
「朱色には魔除けや復活の意味がありました。葺石は白く明るい石を使ったことから、太陽の光に照らされて荘厳に輝く古墳の姿は、さぞかし神々しかったことでしょう。このような威容にした理由は、被葬者の権力を民衆や政敵に誇示するとともに、海外にもアピールするためでした」と福永さん。
日本では4世紀後半から大陸との相互交流が本格化したといわれる。5世紀中頃以降は中国の南朝や百済との繋がりが深まり、百舌鳥・古市古墳群の時代は東アジアとの交渉がヤマト政権にとって非常に重要となっていた。
「仁徳天皇陵古墳をはじめとする巨大古墳は、大阪湾を望む台地上に築かれました。当時の海岸線は今よりも内陸にあったので、大陸から航路で使節団がやってきたならば、海からも見えるその巨大さで圧倒させる。ヤマト政権の威信を海外に誇示するという、大きな役割を担っていたのが古墳なのです」
また、周辺の古墳からは甲冑や刀剣、農具などが出土している。当時、鉄資源は海外からの供給に頼っていたことからも、人々が東アジアと活発に交流していたことを物語っている。
そして何よりその価値を世界に知らしめているのは、堺市のような都市化が進んだ地域に1600年前の構造物が姿を変えることなく残っている不変性だと福永さんは力説する。
「まずはぐるりと仁徳天皇陵古墳を一周してみてください。そうすれば、どれだけ大きいか実感できるでしょう。こんな巨大な遺跡が市街地のど真ん中に残っていることは、世界的に見ても極めて特殊な事例です。百舌鳥・古市古墳群は、1600年の遥かな時を超えて今も大都市の中にその姿をたたえ、私たちは、千年先までそれらが残っていることを思い描ける。それこそが最も世界に誇るべきことであり、大切にすべきメンタリティだと思います」
【百舌鳥・古市古墳群 ココが見どころ】
□ 天皇陵古墳の巨大さ! ぐるりと一周すると実感できる
□ 「 都会の中」に数多く残る、世界に類がない遺跡群である
□ 1600年を超える文化遺産、その不変性に心を打たれる
日常生活のすぐ横に非日常的な空間が広がるギャップを味わってほしい、と福永さん。
「偉大な史跡を目の前にして、それが未来に受け継がれていくことを想像すれば、多少のストレスも発散でき、リフレッシュできると思います」
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