瀕死の徳川綱吉の命を救ったのは大根だった
有名中学入試問題で発見する「江戸時代の日本」⑧お茶の水女子大学附属中学校
名門中学の入試問題をひもときながら、江戸の町の武家・庶民の真実の姿を解説するこの連載ですが、諸事情あり、3か月ほどお休みさせていただきました。
みなさま、もうしわけございません。
改めまして、今月より、不定期ではありますが、連載を再開したいと思います。
さて前回5月10日の記事では、「2009年 お茶の水女子大学附属中学校 東京都・国公立・偏差値68※四谷大塚データ」(社会科目入試問題)より、
問題:江戸時代、江戸の周辺でも野菜や果実がつくられました。
江戸の周辺でつくられた特産物として、あてはまるものを次のアからエまでの中から一つ選び、その記号を書きなさい。
ア、だいこん イ、はくさい ウ、りんご エ、みかん
「答え」:ア、だいこん
という問題を出しました。
そして本文では、江戸の町では大根は“だいこ”“でぇこ”と呼ばれており、大根が江戸患い(脚気)によく効くこと、脚気とはどんな病気か、なぜ江戸の町の人々が脚気にかかるのか、などを解説させていただきました。
今回は、遅ればせながらその続きということで、上の入試問題の答えである『だいこん』と『江戸野菜』について書きたいと思います。
■瀕死の徳川綱吉の命を救ったのは大根だった
大根が脚気に効いたことは先述しましたが、なんと脚気で死の淵をさまよっていた5代将軍・徳川綱吉も見事に完治・生還(?)させたという逸話を持っています。
5代将軍の綱吉は、3代・徳川家光の4男として生まれました。
しかし長兄で4代将軍・家綱から「25万石・館林藩主」に封じられます。
将軍の御連枝(江戸時代、将軍の兄弟をこう呼んだ)とはいえ大名なので、本来ならば綱吉は領国と江戸を参勤交代しなければなりません。初代・家康の子息たちである「御三家」(水戸は江戸定府)や、二代・秀忠の庶長兄「結城秀康(越前松平家祖)」も参勤していることが証明しています。
しかし綱吉は「江戸に常在」することを許されており、藩主任命後もずっと江戸にいました。
綱吉は、この館林藩主時代に脚気にかかります。脚気が江戸の町に広まるのは元禄・享保時代。元禄は綱吉が将軍時代の代表的な年号で、享保は吉宗の時代の代表的な年号です。
…おや? おかしくないですか?
羅患したのが綱吉の館林藩主時代ということは、将軍就任以前=元禄時代より前ですから「江戸の町に広まる以前」ということになりますよね。
そこで前回の記事を思い出してほしいのですが、「そもそも脚気は昔からあり、ただ患者層が『富貴な人々』と、かなり限定的だったため人数もまだ少なく、特に目立ったりしなかった」ということです。
脚気は白米ばかりを沢山食べ続けたり、ビタミンBが不足するとかかりやすくなるといわれています。(無論、それだけが原因ではないですが)
事実、だからこそ「白米溢れる特殊な江戸の町」に住む江戸っ子たちは脚気になりやすかったのです。
ましてや綱吉は藩主で大名、それも普通の大名ではなく「天下の将軍の御連枝様」。普通の大名たちから献上物を貰いがちだったでしょうし、お米も当然白米だったはず。
そう。館林藩主時代から、綱吉は十分に脚気になりやすい可能性があったと考えられるのです。
さて、理由はなんであれ、脚気になった綱吉はだんだん重病化していきます。日本中の名医たちがよってたかって手を尽くしますが、良くなりません。
遂には重体になってしまいます。
周囲が困り果てていたところへ綱吉の生母・桂昌院が偶然「脚気には大根がいい」と小耳に挟みました。しかも占い師からも「北西の方角に移り、土地のものを食べなさい」と言われ、藁にも縋る思いで「練馬村(現・練馬区。当時は村だった)」へ移住・静養したところ、練馬村の名産を食べて回復しました。
当時「江戸近郊の村」だった練馬へなぜ移住したのでしょう?
それは方角もさることながら、占い師から食べなさいと言われた「土地のもの」があったからです。
もう皆さん、お気付きですよね。はい「練馬大根」です!
今もブランド野菜ですが、江戸時代の当時、すでに練馬村では大根が有名でした。
綱吉が食べた大根は、たくあんではなく「切り干し大根」だったのではないか、と言われています。とにかく、大根を食べ続けたのが功を奏し(勿論、他にも食材や漢方など他の理由もあるはずですが)、元気になったようです。
ちなみにこの大根、天下の御三家筆頭・尾張藩から献上させたのを栽培して食べていたといいますから、優雅なものです。さすが将軍の弟というわけですね。
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