歴史人スクープ!滋賀・草津宿本陣に残った新選組の『忘れ物』を発見!
隊士たちが宿場に”忘れ物”
東海道と中山道が合流する草津宿(滋賀県)で、幕末期に本陣田中七左衛門家を利用した人々の忘れ物18点が、先日土蔵内で発見された。
注目されるのは、それらの品のいくつかには紙製の札が結びつけられており、誰の忘れ物なのかが明記されていたことだ。そのうちの1点、煙管入れと付属の袋に結ばれた紙札には、次のように記されていた。
「新選組様五月九日御泊 壱番間ニ御失念物」
幕末の京都で活躍した新選組が、草津本陣に宿泊した際に忘れた煙管入れ(煙管本体は現存せず)だというのである。もっともこの書き付けだけでは新選組の誰が、何年の5月9日に忘れたものなのかがわからないが、幸運なことにそれを特定できる史料も草津宿には残されていた。
本陣の宿帳を兼ねた「大福帳」が保存されており、慶応元年(1865)の頁に、次のようにある。
「同(五月九日)土山立
一、新選組
圡方歳三様
斎藤 一様
伊藤甲子太郎様
藤堂平助様
右上下三拾弐人、弐百五拾文宛御
払、外弐拾四文蝋燭弐拾丁払」
日付が一致しているところからみて、この日のものであることは間違いないだろう。新選組はこのとき江戸で新入隊士を募集し、土方歳三ら幹部4人を含む58人の一行が京都への帰途に草津宿に宿泊した。32人とあるのは本陣の収容能力によるもので、残りは脇本陣もしくは他の旅籠に分宿したと思われる。
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秀吉の死から合戦の結末まで
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