飛行艇誕生の背景~蒼空と碧海をまたにかけた「空飛ぶ巨鯨」の戦い~ |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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飛行艇誕生の背景~蒼空と碧海をまたにかけた「空飛ぶ巨鯨」の戦い~

第2次大戦飛行艇物語①

■飛行艇誕生の背景

1924年に初飛行したイタリアのサヴォイア・マルケッティS.55。同機はアフリカ大陸のセネガルから大西洋を越えて南北アメリカ大陸へと飛行したり、イタリアのオルベテッロからアメリカのシカゴまで飛行したりと、当時としては驚異的な長距離飛行を達成した。

 陸上で離着陸するのではなく、水面を利用して離着水する航空機を水上機と総称するが、その水上機のうち、陸上機の車輪に代えてフロートを取り付けた水上機をフロート機と称する。これは単発からせいぜい双発までの規模の機体に限られる。一方、胴体の下面が船状になっており、水面上では、両翼にそれぞれ設けられた小フロートで、浮いた胴体を支える航空機を飛行艇と称する。単発機にも飛行艇の形態を備える機体は存在するが、ほとんどは双発以上の多発機であった。では、なぜ多発機は飛行艇なのかといえば、それには技術的背景と地勢的背景の二つの要件が大きく絡んでいる。

 航空機は発達の過程で多発化、大型化して行ったが、当然ながら機体重量も増加を続けた。そしてその大重量を支えるため、強化された重い脚が必要となり、脚自体の重量もかなりのものとなった。しかし、脚は離着陸にしか使わず、飛行中に消費される燃料のように逐次重量が減るものではなかった。加えて、機体の全重量が集中する脚の付け根の強度の維持が、当時の技術ではなかなかの難題であった。

 では、厄介な脚をなくすにはどうすればよいか?

 それは飛行艇化に尽きる。胴体そのものを巨大なフロートと考え、浮かんでいるときに翼端が水面に付かぬよう、子供の自転車の補助輪のごとく左右の主翼下に小さなフロートを取り付けるのだ。これなら、胴体も主翼下の小フロートも空気抵抗を最小に抑える設計を施すことで、「重い脚を持たない多発機」としての性能を発揮できるばかりでなく、脚がなくなって浮いた分の重量を燃料搭載量の増加などに回せた。

 では、かような技術的背景に対して、地勢的背景とは何だったのか。それは、飛行距離の延伸と滑走路の問題だ。多発の大型飛行艇が出現した1920年代、航空機の開発や生産が可能な列強各国は、世界各地に自治領や植民地を擁しており、それらと本国を結ぶため、航空路の開拓が世界的に隆盛だった。大型機が離着陸できる舗装された長大な滑走路の造成は、母国なら何の問題もなく実現できる。だが自治領や植民地には辺境も少なくなく、大規模な滑走路の造成が難しいケースも多かった。しかし工事不要の広い河川湖沼や波静かな内湾であれば確保は容易で、飛行艇ならこれを用いて発着ができた。

 加えて、世界的に飛行場の数が限られた状況下での長距離飛行では、トラブル時の着陸場所の確保が難しいうえ、本国と外地を結ぶ航空路の多くは、当然ながら洋上飛行が多かった。その場合、陸上機では海上不時着となって機体が大破する恐れがあるが、飛行艇ならば緊急時には着水を試み、海況が荒れていてクラッシュ・ランディングになってしまい損傷するにしても、陸上機の海上不時着による損壊よりはよりはましな可能性が高かった。

 こういった訳で、1920年代から1930年代にかけて、飛行艇はヨーロッパと中東や極東、アメリカとヨーロッパや極東を結ぶ航空路に投入され、全盛期を迎えた。だが1930年代に入ると航空技術は急速に進歩し、民間市場での飛行艇の優位性は急速に失われた。ところが、軍用としてのニーズには高いものがあった。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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