「24年の短い生涯を全力疾走した人見絹枝、犬養毅の巻き添えになりかけた海の向こうの喜劇王」1931(昭和6)年 1932(昭和7)年【宝泉薫】
【連載:死の百年史1921-2020】第10回(作家・宝泉薫)
死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。第10回は1931(昭和6)年と1932(昭和7)年。五輪と女性の歴史を変えたレジェンドの夭折と、5・15事件の秘話を紹介する。
■1931(昭和6)年
日本女子初の五輪メダルから3年、8月2日の悲劇と縁
人見絹枝(享年24)
日本の女子スポーツ史上、最高のアスリートは誰か。その候補の最右翼が人見絹枝だろう。走り幅跳びをはじめ、数々の陸上種目で世界記録を樹立。19歳で出場した第2回国際女子競技大会(通称・女子オリンピック)では個人総合優勝を果たしている。昭和3(1928)年のアムステルダム五輪の陸上800メートルで、日本の女子選手初のメダル(銀)を獲得したことで知られ、その活躍は大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』でも描かれた。
が、彼女は銀メダル獲得からちょうど3年後にあたる8月2日に、肺炎で他界する。24歳での夭折だ。前年9月にはチームを率いてヨーロッパを転戦したが、風邪をこじらせ、咳や発熱に悩まされていた。同行した後輩選手によれば、帰路の船中で血痰も吐いていたという。
そこには、遠征費を稼ぐため、講演や執筆にと無理を重ねた影響が大きかった。帰国後も寄付金への返礼や女子スポーツ振興のため、同様の生活を続け、体調は悪化するばかりだったのである。
ただ、彼女はそういう人だった。五輪で銀メダルを獲ったときも、優勝候補だった100メートルで失敗したため、これでは日本に帰れないと、800メートルでのリベンジを決意。一度もやったことのない種目だったが「途中で死んでもかまいません」と監督に訴えた。そして「(途中で)目が見えなくなった。それから先は何も覚えていません」という激走で2位になったのだ。
この激走を可能にしたものについて、脳科学者の中野信子がこんな指摘をしている。
「人間の体って、何十年も使わなきゃいけないから、全力を出し切らないように脳がブレーキをかけてますよね。でも、このときの彼女は、全力を出し切るように自分で自分を仕向けてしまっていて……。なかば自殺行為のようなことをして走っているような、そういう極限状態で得た銀メダルだったなということを考えると、すごくせつないような気分になります」(NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』)
こうした独特の「才能」が講演や執筆活動にも発揮されてしまったとしたら、命がいくつあっても足りないだろう。彼女は瀕死の病床にあってもなお、
「息も脈も熱も高し。されど、わが治療の意気さらに高し」
と、ノートに綴り、闘い続けた。
なお、彼女が亡くなってから61年後、銀メダルからは64年後の8月2日、バルセロナ五輪のマラソンで有森裕子が銀メダルに輝いた。人見以来の陸上女子のメダルであり、ふたりは同じ岡山出身。しかも、有森の祖母は高等女学校で人見の1年後輩にあたり、有森は人見の話をよく聞かされていたという不思議な縁だった。
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