「24年の短い生涯を全力疾走した人見絹枝、犬養毅の巻き添えになりかけた海の向こうの喜劇王」1931(昭和6)年 1932(昭和7)年【宝泉薫】
【連載:死の百年史1921-2020】第10回(作家・宝泉薫)
■1932(昭和7)年
5・15は「話せばわかる」時代の断末魔だった
犬養毅(享年76)
5・15事件。海軍の青年将校らによって、時の首相・犬養毅が殺害された事件だ。その背景には、英米に対して分の悪い軍縮条約を結んだ若槻礼次郎内閣への不満があり、後継内閣を組織した犬養がそのとばっちりを受けたともいえる。なんにせよ、原敬で始まった本格的政党政治の歴史はここでいったん終わりを告げた。
そういう意味では、官邸に押し入った将校らと首相のやりとりはやはり象徴的だ。現場が和室だったため「靴ぐらい脱いだらどうだ」と言う犬養に、将校らは「靴などどうでもいい。我々が何のために来たか、わかっているだろ。それとも、何か言いたいことでもあるのか」と反発。「問答無用、撃て、撃て」という合図を機に、拳銃の引き金をひいた。一瞬で致命傷を負った76歳の老政治家は息も絶え絶えに、
「話して聞かせてやろう。話せばわかる」
と漏らしたという。
幕末維新の大動乱を経て「話せばわかる」社会を築いてきた日本だが、この事件を境に「問答無用」の乱世へ再突入していく。犬養のいまわの言葉は、ひとつの時代の断末魔でもあった。
ところで、事件の首謀者・古賀清志は別の標的も狙っていた。米国の喜劇王・チャップリンだ。折りしも外遊中で、最後に日本へ寄ることになっていて、犬養との面会が予定されていた。当初はそこを襲撃して、チャップリンもついでに殺し、敵視する米国に対してもひと泡吹かせようとしていたわけだ。
しかし、喜劇王が東南アジアでデング熱にかかり、来日が遅れることに。いったん、当初の計画をあきらめたものの、その後また予定が変わり、5月14日には日本に着いた。翌日、官邸で歓迎会が開かれることになり、ふたりまとめて殺される可能性が再浮上したのだが――。
当日、チャップリンは相撲見物に行きたいと言い出した。じつは長年、秘書をしていた日本人男性が来日直後からいろいろと心配そうにしているのを見て、身の危険を感じたらしい。秘書は喜劇王が親日派だという印象を世間に与えるよう苦心していて、そこから米国人である自分の立場の微妙さを察してもいたようだ。
事件のあと、チャップリンは犬養が殺された部屋を訪れて哀悼の意を示し、また、首相秘書だった犬養の息子をいたわった。
「だれよりも一番しんみり、涙ぐんで僕を抱きしめながら、僕の悲しみをわかってくれた」
とは、息子の述懐だ。
ちなみに、チャップリンはこのとき43歳。もしここで殺されていたら『モダンタイムス』や『独裁者』『ライムライト』といった後期の作品は生まれなかったし、88年もの長命を保つことも叶わなかった。
一方、首謀者の古賀は禁錮15年の判決を受けたが、6年後、特赦によって出所。さすがに軍人には戻れなかったが、戦後は不二流体術を創始するなどして、89歳まで生きた。
殺された者、殺されかけた者、殺し、殺そうとした者。三者三様の運命について、ちょっと考えさせられる出来事である。
(宝泉薫 作家・芸能評論家)
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