「どうして私はツイッターに強く依存し、時に激怒していたのか?」【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第9回
一生会うことのない人とツイッターで言い争うとき。孤立した肉体には怒りが吹き溜まる。割り切れる人もいるだろう。だが、割り切れる人の多くは、すでに孤立していない人ではないだろうか。そういう人は、自分以外の誰かとの、顔を見せあうつながりをすでに持っているのではないか。人数の問題ではない。何百人もの顔も知らない誰かではなく、たとえ本名さえ知らないとしても、それでもじっさいに顔をあわせて語りあうことのできる、たった一人の誰かがいるかどうかが問題なのである。ツイッターで「論破した」と見事な理屈で言い張るよりも、どうでもよいことを、いや、ときにはため息一つだけを共有できる、そんな誰かがいるかどうかが大切なのだ。
教会に初めて訪ねてくる人と、わたしはいつでも濃密で深刻な話をするわけではない。ときには何時間も「つまらない」話をして終わることもある。だから、もしもその話題をツイッターにつぶやいたとしても、それはとても「つまらない」話題である。しかし、その人の来るときの表情と、帰るときのそれとはぜんぜん違う。教会に重い荷物を置いていったように、軽々としている。わたしはその人の顔から、その人の語りえぬ人生の積み重ねを読み取った。相手もたぶん、やはりわたしの顔から、自分の話を真面目に受けとめようとしている他者の存在を読み取ったのだ。話題が話題として雄弁であるかどうかは、そこでは関係ないのである。
半世紀以上昔は、人と人とのつながりからいかに自由になるか──しがらみからの脱出──が重要だったこともある。そして今、多くの人がしがらみからの自由を、ある程度達成できた。けれどもそれと引き換えに、孤立する人が増えてしまった。しがらみのない、さっぱりとした人間関係は、自分から維持しようと思わない限りは、それこそさっぱりと消えてゆく。ツイッターで意見が衝突してもなんとか維持しようと、わたしが「しがらんで」いる相手は、一度でも会ったことがあり、この人にはなにか魅力があると思った人である。「しがらむ」ためには、自分の意見をある程度控えたり、言いたいことを我慢したりすることもある。衝突を恐れず言いたい放題主張するのとは違う、じつにめんどうくさい態度が要求されるのだ。けれども、しがらんでみるだけの値打ちもじゅうぶんあるということ。それが、教会というしがらみに囚われながら、そこに捨てがたい魅力を感じてもいる、わたしからのささやかな主張である。
文:沼田和也