「盛親は藤堂勢の素早い動きを察し、先手に本隊への合流を命じたが、間に合わなかった。そればかりか、八尾にいた盛親の本隊にも藤堂仁右衛門・桑名弥次兵衛・藤堂勘解由(かげゆ)らが襲いかかった。
盛親は冷静に対応した。大和川の堤防に兵を伏せ、藤堂勢を間近に引き寄せてから、盛親の軍令一下、一気に打って出た。藤堂勢の大将の一人、桑名弥次兵衛は盛親のもと家老で、盛親が改易(かいえき)されたのち、高虎に召し抱えられた。長宗我部勢は弥次兵衛を裏切り者、恩知らずと罵ののしって攻撃を集中した。弥次兵衛も武士の面目でこれを受けて起ち、一歩も退かずに討死を遂げた。
盛親勢は強く、藤堂勢をまくり立て、藤堂仁右衛門、山岡兵部(ひょうぶ)などの大将をはじめ数百人を討ち取った。
盛親があと少しで藤堂勢を崩そうとしたとき、北から木村勢を破った井伊勢が八尾に姿を現した。新手の登場に、さすがの盛親も苦戦は免れず、崩れ立った。盛親は唇を噛みしめながら退却のやむなきに至ったのである。
藤堂勢も痛手が大きく、翌日の天王寺決戦では先手を辞退し、後手に回らざるをえなかった。(続く)
文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。