大谷吉継の〝リーダー失格〟宣言
季節と時節でつづる戦国おりおり第486回
今から421年前の慶長5年7月11日(現在の暦で1600年8月19日)、石田三成が大谷吉継と佐和山城で会見。家康追討の策を練る中で、大谷吉継が石田三成に対し対徳川家康戦についての忠告を与えたという逸話が伝わっています。
吉継が三成に「そこもとには、諸人へ対し申されての辞宜作法ともにことのほかえいかいに候」(おまえは人に対して言葉遣いも礼儀作法もことのほかに横柄だ、『落穂集』)と有名な「ダメだし」をしたというのが、この「リーダー失格宣言」です。
この日、三成の居城・佐和山で会津上杉討伐に赴く徳川家康の討伐の決意を聞いた吉継は「もってのほかなる不了見」と即座に反対し、「家康は智勇兼備の人だから、我々の良い相談相手と思って彼に協力するのだ」とまで言って三成を翻意させようとした吉継は、結局三成とともに挙兵する事になって冒頭の台詞を吐き、三成がリーダーでは誰もついて来ないから毛利輝元や宇喜多秀家を主将に戴けとアドバイスしたとされますが、これはどこまで本当の事なのでしょうか。
そもそも、吉継はこの1年3ヶ月前、三成が失脚する際に毛利輝元に対して「家康の対抗馬になってくれ」と申し入れています(「吉継から家康のむかいくら(向座)になってくれと申し入れがあった」毛利輝元書状)。
時期はちょうど前田利家という、家康に対抗できるビッグネームの死の直後。
吉継は三成と連携し、利家の後釜として毛利輝元に目をつけていました。
目を転じて吉継の人間関係を考えると、彼の母親とされる東殿は豊臣秀吉の正室・高台院(おね)の側近です。
してみると、吉継の行動は高台院の意向を受けたものとも考えられるわけで、秀吉亡き後の豊臣家を、高台院は家康とその対抗馬との2大勢力の均衡の上で運営していこうという構想を三成・吉継と共有していたと言えそうです。
以上のことを考えれば、佐和山城での吉継のセリフは虚構であり、三成は吉継に言われるまでもなく当初から輝元を旗頭に据えようとしていた、そしてその意識は吉継も共有していたと考えた方が自然でしょう。