近江は幕府軍に侵攻されたり、将軍を匿ったり…。
―応仁の乱が起こした名家没落と下剋上
シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」⑦
■近江は幕府軍に侵攻されたり、将軍を匿ったり…
文明10年(1478)、六角高頼は幕府によって赦免され、近江守護に復帰した。それは、高頼の権力を、幕府も無視することができなくなっていたためであることは言うまでもない。事実、近江守護になったとはいえ、六角高頼は幕府に従順にはならなかった。むしろ、比叡山延暦寺などの荘園を押領していき、独自に領国化を進めている。
もちろん、このような行動は、幕府にとって認められるものではない。長享元年(1487)、六角高頼は、延暦寺などの訴えを聞きいれた9代将軍足利義尚によって追討されることになったのである。このいわゆる鈎の陣において、高頼は甲賀に逃れて抵抗を続け、将軍の足利義尚が病気で陣没したことで、辛くも勝利を得ている。
さらに延徳元年(1489)にも、六角高頼は、10代将軍となった足利義材によって征討をうけた。このとき高頼は、江北の京極高清から支援を受けつつ、自らは伊賀に逃れて抵抗を続けている。明応元年(1492)、将軍足利義材によって高頼の近江守護職は奪われ、六角政堯の養子である六角虎千代に与えられることになった。
翌明応2年(1493)におきた明応の政変により、義材が管領細川政元に廃立されたため、後ろ盾を失った六角虎千代は失脚する。こののち、六角氏の一族である山内就綱が六角氏の家督を継ぎ、延暦寺と結んで高頼に対抗していく。しかし高頼は、美濃の斎藤妙純の支援を受けて江南を実質的な支配下におき、明応4年(1495)、再び近江守護に補任されたのである。
そのころ、江北の京極氏では、依然として、京極政経・材宗父子と京極高清が家督を争っていたが、明応元年、政経が将軍足利義材の勘気にふれて失脚したことで、高清に京極氏の家督が認められた。だが、こちらも翌年におきた明応の政変により、立場は逆転する。すなわち、義材が廃立されたことで京極政経が復権し、逆に高清が失脚したのである。だが、高清は、舅にあたる美濃の斎藤妙純に支援されて京極政経を国外に追放し、政経の子材宗とも和睦のうえで自害に追い込む。こうして、江北は高清によって統一されたのである。
(次回に続く)