皇后雅子さまは“スラッガー・マサコ”!?意外な少女時代のエピソード
皇后雅子さまのアイデンティティ
雅子さまは1963(昭和38)年12月9日生まれ。外務省条約局法規課に勤務していた父・小和田恆氏は、彼女が1歳8カ月の時にモスクワ勤務になり3年間、その後ニューヨークで3年間勤務したのち本省に戻った。
病気もあまりしない健康な子ども、リーダーシップをとって仲間を引っ張るというより、みんなと一緒に行動するタイプの彼女は7歳で婦国したあと、新宿区立富久小学校に1年通い、3年生から私立田園調布雙葉学園に編入する。犬・猫だけではなくハムスターやカメレオンを飼い、大の動物好きで、生物部に入っていた。
「小学校6年生の夏休みにハツカネズミを3匹預かってきたんです。それを漬物の樽の中に入れておりましたら、まさにネズミ算でどんどん増えまして、雅子はネズミの生態やお産の様子を観察していたようなんですが、休みの終わり頃には50匹くらいになってしまったんです。その50匹がある夜、樽を齧って全部脱走してしまいまして、慌てて保健所に連絡したりで大騒動でした」(『文藝春秋』93年3月号より)
「宿題だけは必ずすること。それからできれば、今日お習いしたことに一度目を通すこと」が小和田家の決まりだった。
中学に進むと、自ら音頭をとってソフトボール部を結成、サードを守り、中心打者として活躍した。読売巨人軍で玄人受けしていた高田繁選手の熱烈なファンで、多摩川グラウンドの金網越しに声援を送っていたこともある。3年生では、世田谷区のソフトボール大会で優勝した。
父親が在米公使の肩書でハーバード大学客員教授として赴任したのは、彼女が高校1年の夏のことである。出発の日、クラスメートの全員が箱崎まで見送り、さらに20人以上の級友が、成田まで付き添った。
二度目の米国暮らしはマサチューセッツ州ボストンだった。ハーバード大学を狙うには格好というボストン郊外の公立高校ベルモント・ハイスクール2年に編入、ここでもソフトボール部に入っている。彼女は勉強の傍ら、バーシティ・チーム(高校の代表チーム)の四番・セカンドとして対外試合にも出場していた。地元紙に「スラッガー・マサコ」の記事が載ったこともある。
まさに「文武両道」の雅子さまは、帰国する一家と別れてハーバード大学経済学部に進む。同大学では国際経済学を専攻、卒論のテーマは「日本貿易における石油──輸入価格ショックへの対応」。この卒論で成績優秀賞(マグナ・クム・ラウデ)を受けている。
1985(昭和60)年6月、ハーバード大学卒業。翌年4月、30倍を超える倍率を突破して東大法学部の3年に学士入学し、同年10月には40倍ともいわれる外務省の上級公務員試験にも合格する。試験にパスした際、東京新聞の記者に感想を求められ、
「私自身、日本人なのか、アメリカ人なのかどっちつかずの気がします。日本のことをよく知りたいです」と、自らのアイデンティティを問うようなコメントを語っている。
この直後、スペイン王女の歓迎茶会で天皇陛下(当時は浩宮さま)と運命の初対面を迎えた雅子さま。その後、皇室に興味を持ち、日英協会のパーティで浩宮さまと会話を交わし、東宮御所に出かけたのも、このアイデンティティの問題があったのかもしれない。
KEYWORDS:
『消えたお妃候補たちはいま』
「均等法」第一世代の女性たちは幸せになったのか
小田桐 誠
皇后雅子さまと他の候補者たちを分けたもの
それぞれを待っていた未来は
令和時代が幕を開け、皇后となった雅子さまに大きな注目が集まっている。現在の皇室も結婚問題に揺れているが、天皇陛下が雅子さまを射止めるまでの「お妃選び」も、初めてお相手候補の報道が出てから15年という長期にわたり世間の耳目を集めるものであった。
その間、リストアップされた有力候補者たちは本書に登場するだけでも70名。雅子さまとのご成婚に至るまでに、家柄も学歴も申し分ない候補者たちがなぜ、どのようにリストから消えていき雅子妃が誕生したのか。
外務省でのキャリアを捨てて皇室に入られた雅子さまと、消えたお妃候補者たちは同世代で、いずれも「男女雇用機会均等法」第一世代。四半世紀を経た今、果たしてそれぞれの幸せをつかんでいるのか――克明に追ったルポルタージュ。