令和という新時代を迎えた今、幕末に未来を切り拓こうした新選組局長「近藤勇」の魅力を想う
「新選組」の真実
先日の「即位礼正殿の儀」は、日本中を祝賀ムードに染め、改めて新時代到来を感じさせた。
幕末、新時代を迎える際、日本は激動のなかにいた。そんな中、烏合の衆をまとめあげ、洗練された剣客集団・新選組として動かした男・近藤勇。そんな新選組局長を務めた男の魅力について、本稿では迫っていく。(『明治維新に不都合な「新選組」の真実』吉岡孝 著[はじめに]より)
■新選組局長「近藤勇」の魅力とは――
幕末維新は多くの魅力ある英雄を生んだ。たとえば西郷隆盛(さいごう たかもり)の魅力は、いくたびもの政治的挫折によって培われた強きょう靱じ んな忍耐力だろう。高杉晋作(たかすぎ しんさく)の魅力は、育ちの良さからくる奔放でわがままなまでの行動力。坂本龍馬(さかもと りょうま) は、誰もが魅了されたその交渉能力であろう。
では、近藤勇(こんどう いさみ)の魅力とは、なんであろうか。新選組(しんせんぐみ)局長である近藤は、時代劇や歴史小説でもよく取り上げられる人物だが、その姿をたとえていうなら「幕末のゴジラ」である。
何の理想も持たず、何の政治性もなく、ただ暴れ回るだけの男。
しかし、このようなイメージくらい、近藤の実像とかけ離れているものはない。近藤の魅力は政治に対して見識を有し、そこからいま自分がここで果たさなければならない役割を鮮明に理解し、それに適応した組織を作り上げたということである。
たとえば、近藤が文久(ぶんきゅう)3年(1863)7月に、おそらく会津藩に提出した思われる建白書を見ると、「大坂城に御三家クラスの大大名を配置」するように主張しているこれは帝都(京都)防衛のためである。文久3年は、浪士組(ろうしぐみ)として2月に上洛した近藤たちが、そのまま京都に残留して、3月に新選組(結成当初は「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」と呼ばれることが多い)を結成した年である。また、この年の5月には、攘夷(じょうい) にはやる長州(ちょうしゅう)藩が下関海峡で欧米の「黒船」に砲弾を浴びせ、7月には薩摩(さつま)藩とイギリスが薩英戦争を行っている。
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KEYWORDS:
『明治維新に不都合な「新選組」の真実』
吉岡 孝 (著)
土方歳三戦没150年……
新選組は「賊軍」「敗者」となり、その本当の姿は葬られてきたが「剣豪集団」ではなく、近代戦を闘えるインテリジェンスを持った「武装銃兵」部隊だった!
いまこそ「官軍の正義」を疑え!「新選組の歴史」が変わる!
初公開を含む「豊富な図版点数」を収録。
いまこそ「新選組」の本当の姿をお伝えしよう
◆長州&土佐は上洛直後の新選組のスカウトに動いた
◆新選組は剣豪集団ではなく「武装銃兵」部隊だった!!
◆「俺たちはいくらでも近代戦を戦える!」
―――――そう語ったと読み取れる土方歳三の言葉とは!?
◆新選組の組織と理念は、本当は芹沢鴨が作った?
◆近藤勇より格上の天然理心流師範が多摩に実在!
◆新選組は幕末アウトロー界の頂点に君臨していた!?
◆幕末の「真の改革者」はみな江戸幕府の側にいた!!
ともすると幕末・明治は、国論が「勤王・佐幕」の2つに割れて、守旧派の幕府が、開明的な 近代主義者の「維新志士」たちによって打倒され、「日本の夜明け」=明治維新を迎えたかの ような、単純図式でとらえられがちです。ですが、このような善悪二元論的対立図式は、話と してはわかりやすいものの、議論を単純化するあまりに歴史の真実の姿を見えなくする弊害を もたらしてきました。
しかも歴史は勝者が描くもので、明治政府によって編まれた「近代日本史」は、江戸時代を 「封建=悪」とし、近代を「文明=善」とする思想を、学校教育を通じて全国民に深く浸透さ せてきました。
そんな「近代」の担い手たちにとって、かつて、もっとも手ごわかった相手が新選組でし た。新選組は、明治政府が「悪」と決めつけた江戸幕府の側に立って、幕府に仇なす勤王の志 士たちこそを「悪」として、次々と切り捨てていきました。
新選組の局長近藤勇は、自己の置かれている政治空間と立場を体系的に理解しており、一介 の浪士から幕閣内で驚異的な出世を遂げた人物です。そんな近藤の作った新選組という組織 を、原資料を丁寧に読み込み、編年形式で追いながら、情報・軍事・組織の面から新たな事実 を明らかにしていきます。
そこには「明治維新」にとって不都合な真実が、数多くみられるはずです。