自分の言い分を通すために、「オリンピック・パラリンピック」を利用する人たち【仲正昌樹】
この問題に限らず、メディアは、飲み屋とかデパ地下が危ないといった“専門家の発言”に科学的根拠があるかのように伝えるが、「感染症の専門家」の発言が尊重されるべきは、コロナウィルスがどのような状態の人からどのくらい排出され、それが何を介して他の人の身体に侵入するかであって、特定の場所や空間で人間がどう行動するかは彼らの専門外である。恐らく社会学や心理学の領分だが、その方面の専門家をつれてきても、「〇〇のようなタイプの飲み屋だと、飛沫を飛ばしたり、同席者の身体に接触したりする可能性が△△%高くなる」、というような正確な分析を出すことはできないだろう。
昨年の始めにコロナ問題が本格化して以来、テレビやネットメディアに登場する(医師でない人さえ含む)“コロナ専門家”が、コロナに関連付けることで、人間行動全般を予測する“専門家”になり、コロナの犠牲者がどれくらいの幅で収まれば終息するのか決める“権威”さえ持っているかのように見なし、彼らを英雄視する風潮が強まっている――どういう病気の人のためにどれだけの医療資源を割き、どれくらいの不便を他の国民にかけるかは、政治が決定することである。オリ・パラ問題で、それがますます極端になっているように思われる。“感染症の専門家”であれば、オリ・パラの感染対策の妥当性についてコメントすべきであって、国民の行動の変化を予言したりすべきではない。
こうした安易な“心理学”や“専門家”権威主義も、政府・自民党を罵倒できるネタなら何でもいい、真面目にやっている選手や関係者を苦しめることになっても、全ては政府・自民党のせいだ、という発想に由来するものだろう。