自分の言い分を通すために、「オリンピック・パラリンピック」を利用する人たち【仲正昌樹】
④「オリ・パラは政権の人気取りのために利用されている」は、政権政党である以上、国を挙げての行事が成功すれば、その内のある部分が彼らの手柄になってしまうのは仕方ないことである。問題とすべきは、それが真に国民の利益になっているかどうかだ。この場合は、(a)コロナ禍にあってオリ・パラを開催したことが、選手やスポーツ団体・愛好者、海外の政府・マスコミからどう評価されたか、(b)コロナ対策に象徴される公衆医療政策と経済・社会活動を両立させる基準の確立に寄与したか、(c)それによってコロナ対策が手薄にならなかったか――の三点である。
(c)については、既に述べたように、きちんとした検証がなされていないし、マスコミや野党、ネット上の「自粛推進―オリ・パラ反対」論者はそもそもまともな議論をする気がなさそうだ。(b)は、長期的な視野に立たないと評価が難しいということもあるが、ほとんど取り上げられていない。(a)については、開会式・閉会式の演出の問題についての批判に終始し、大会の運営や選手の健康管理という一番肝心な問題はほぼスルーされている。
オリ・パラのような大きな行事では、演出も確かに重要であり、その準備が特定の業界の事情で本来の主旨からズレているのであれば、政府や組織委員会の管理責任は問われるべきだろう。しかし、それはコロナ禍の前に生じていた組織上の問題であって、コロナ禍での開催の是非とは別の問題だ。もともとオリンピックの商業主義を批判していた人が言うのならわかるが、コロナとの関連でオリ・パラ反対の世論を盛り上げようとしている人たちが、演出の問題に拘るのはおかしい。まずは、選手や関係者が今回の開催をどう評価しているかに注意を向けるべきだろう。
結局、コロナが拡大したのは現政権のせいだ、と叫んで溜飲をさげたい人、それで視聴率を取りたいマスコミ、選挙に利用したい野党が、「オリ・パラ」を利用しているせいで、余計なところに話が拡散している。政権の杜撰さや矛盾を批判することは必要だが、陽性判明者が増えるのも自粛で苦しいのも政府のせい、若者の気分が緩むのも政府のせい、バッハ会長の物言いが失礼なのも政府のせい、というような雑な印象による“批判”は、全く非生産的である。活かしようがないので、政権が替わっても同じことの繰り返しになるか、もっとひどいことにしかならない。全てはお上のおかげ、という古いメンタリティが、全てはお上のせいに、反転しているだけのように思える。
特に腹立たしいのは、パラリンピックはオリンピックより規模が小さいうえ、海外からの参加者が勝手に外出する可能性は低いと予想されるにもかかわらず、ヤフコメなどの反対意見で、何の考察もなく、「もうこれだけ感染爆発したら、パラ中止しかないっしょ!」、と気楽に書いている人間が多いことである。障害者のスポーツイベントのことなど細かく考えなくてもいい、という潜在的な差別意識の現われとしか思えない。
反対論者は、「いや、障害者を利用しているのは政府でしょ」、と言うだろうが、たとえ単なるパフォーマンスだとしても、政府は障害者の人たちのこれまでの取り組みを何とか無駄にしないように努力する、というポーズを取っているし、参加者もそんなこと百も承知で参加しているはずである。それを、「どうせ、政府の偽善なんだから、付き合う必要などないっしょ!」、といった調子の安直なヤフコメ意見や“専門家のカン”に頼って邪魔するのが、文明国の国民にふさわしいことだろうか。
文:仲正昌樹