乙巳の変の理由は、ヤマト朝廷を二分した勢力の存在
聖徳太子の死にまつわる謎㉝
■倭の五王・雄略天皇に遡れば見えてくる皇統の問題
話は、三世紀後半(あるいは四世紀) のヤマト建国にさかのぼる。
『日本書紀』に描かれた神武東征のイメージは、「強い征服王」である。だが、この場面、よく読むと、神武天皇はけっして敵を圧倒したわけではなかったことが分かる。大阪方面からのヤマト入りに失敗し、一行は大きく紀伊半島を迂回する奇襲を選択している。しかも、ヤマトに陣取る敵の姿をみて、「とてもかなわない」と観念している。
ではなぜ、神武はヤマトの王に立ったのかといえば、神託を得て敵を呪ったこと、ヤマトにすでに舞い降りていた饒速日命 (物部氏の祖) なる人物に王権を禅譲されたからである。 考古学も「ヤマトの弱い王」を証明している。ヤマト建国時、各地の首長がヤマトに集まり、彼らの総意によってヤマトの王が立てられていたことが分かってきた。
たとえば、ヤマト建国を象徴するのは、ヤマトに誕生した前方後円墳で、この巨大な墳墓をみても、強い王を想像しがちだ。だが、これも誤りである。
前方後円墳は、四世紀にかけて各地に伝播していく。これは埋葬文化の斉一化を意味している。だからこそ、前方後円墳の出現をもってヤマト建国と考えられているのだが、宗教観の統一が強圧的に断行されたのかというと、そのような痕跡はなく、各地の首長が選択していったと考えられる。
また、前方後円墳の成立も、いくつかの地域の埋葬文化を寄せ集めていた、という経緯がある。 このように、ヤマト誕生後のヤマトの王は、けっして強大な権力を握っていたわけではない。むしろ、祭司王の側面が強かったと思われる。
ところが五世紀にいたり、 様子が変わってくる。朝鮮半島北部の騎馬民族国家・高句麗が南下政策を採り、半島 南部の国々が、日本に救援を求めた。ヤマト朝廷は盛んに出兵を繰り返し、東アジアのなかで、倭国王が名を挙げていく。いわゆる倭の五王と呼ばれる人々だ。
そして、倭の五王の最後の武王=第二十一代雄略天皇の時代、画期が訪れる。「強い王」をめざし、改革事業に乗り出したのである。 雄略天皇は古代史のエポックだったことは、多くの文書が、この人物を特別扱いしていることからもはっきりとわかる。『日本書紀』は、雄略天皇の時代に暦を入れ替えたと伝える。
『万葉集』の巻頭を飾る歌は、雄略天皇のものだ。『日本霊異記』なども、雄略天皇の時代から話を始めている。制度史の上でも、旧態依然としたヤマトの統治システムに、風穴を開けたのが、この時代だったと考えられている。雄略天皇は、古代版「織田信長」といったところだろうか。
もともと雄略天皇は、皇位継承候補ではなかった。ところが、兄・安康天皇が暗殺されると、有力皇族や豪族たちを次々となぎ倒し、皇位を簒奪している。
『日本書紀』によれば、雄略天皇は独断が多く、誤って人を殺すことがしばしばあっ たといい、人々は「大だ悪しくまします天皇なり」と罵ったという。また、寵愛する者は、 渡来系の役人数人だったという。
天皇家の正統性を証明するために記された『日本書紀』のなかで、「悪い王」が登場するのは不思議でしょうがないが、「暴君・雄略天皇」出現ののち、皇統の危機が訪れているから、よほど雄略天皇は、破天荒な人物だったとみえる。
雄略天皇の息子・清寧は即位したが、そのあとが続いていない。清寧天皇が亡くなると、皇位は雄略天皇の政敵の子が継いでいる。顕宗と仁賢の兄弟が、順番に即位し、しかも仁賢天皇の子・武烈天皇の代で、この王統も断絶している。六世紀初頭のことである。
(次回に続く)