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梟雄・松永久秀の遺蹟をめぐろう!④光徳寺

季節と時節でつづる戦国おりおり第398回

 今回の松永久秀ツアーも、最後の目的地を残すのみとなりました。信貴山城から車で下るとわりとすぐ、尾根続きの麓に光徳寺さんがあります。

 

 なかなかの威容だと思いませんか?

 このお寺さんは天正5年(1577)の松永久秀滅亡時に織田信長に寺地を没収されたそうですが、ここの墓地に久秀の母親のものと伝わるお墓があるのです。

 

 背後の山腹にひらかれた墓地に、そのお墓はありました。

 五輪塔のまわりを自然石が囲むという、なかなか味のある姿ですね。お寺の記録によればお墓の主は「林貞禅尼 和州信貴城主 松永弾正少弼母儀 右為遠忌之志黄金五枚寄付因茲毎年八月十二日令修讀経之由見? 松谷伝 傳承記 元亀三壬申年八月十二日卒」となっているそうで、もしこれが本当ならば元亀3年(1572)からの遠忌というと十三回忌の天正12年(1582)から毎年祥月命日に金5枚(=50両!)を寄進する、ということになります。

 久秀は天正5年に息子たちともども亡くなっていますから、生き残った娘ふたりのどちらかか、あるいは孫(少なくとも甥)という説がある俳人の松永貞徳あたりが動いたのでしょうか。

 ただ、久秀の母については『多聞院日記』に永禄11年(1568)2月15日のこととして「松源母儀、堺に於いて死におわんぬ。八十四才。松源は当年六十一才也と」と記されており、この「松源」が久秀のことであるため光徳寺さんの記録とは矛盾が出て来てしまいます。

 ちなみに久秀の生年が永正5年(1508)とされているのはこの記述に拠っていますが、果たして久秀のお母さんの没年は4年の違いのいずれが正しいのでしょうか。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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